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ラブレター1通目が送られてきて

本を出したいと話していた彼に言った。
「ラブレター書いて練習したらいいじゃん!」って。

思えばわたしは、定期的に送られてきた彼のメールの奥にある深い想いや信念にものすごく惹かれていった。だから彼が想いから生み出す言葉たちは、まわりを温かく優しく、人を大きく包んで幸せにするように思っている。

冗談のように軽く言ったけれど、本当は書くきっかけになればいいなと秘かに思っていた。

彼の温かさの裏には、「きちんと」影がある。

わたしはそこにとても安心しているし、その影も彼を構成している魅力のひとつ。わたしの心の深い部分から、彼の影を包みたくなったり、頼りたくなったりする気持ちが混同して湧いてくる。

影とは「人間力」。
人に必ずある人間臭さのようなものかな。

光の強い人ほど闇も深い。闇の背景はこちら側は想像することしかできない・・・けれど、その人の「優しさ」という温かさは闇の深さと比例する。

つまり、後悔や自分の弱さとの向き合い、無力感を感じた経験が心に刻まれてあるからこそ、そこから歩んだプロセスが光の道となり、優しさという見えない人間力を纏わせ、光に向かう姿勢が影をくっきりと存在させる。

わたしはその影がなんだか好きでたまらない。
その影を男性に感じてしまうとキュンとする。心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。

それはわたしが女だからだろうし、自分が女ということを実感できることは、自分としっかり繋がっていることだ。だから心地よい気持ちにもなる。

影を自分の存在にしている人には、男女問わず強烈に惹かれる。

世の中は「光」を求める。
「光」に近づこうと努力し、「光」を羨み、「光」になりたいと願う。
誰かの「光」をも自分のモノ、もしくは、自分が誰かの「光」にいちばん親しい存在でいたいと思い始めたり。

その行く先は自分の無力、無価値感との遭遇。自分を見失う。
依存し、彷徨い、人のエネルギーを奪いはじめる。

自分の「闇」が人の「光」を眩しく思わせ、
自分の「闇」が人の「光」を見つけるのだから

「光」を他人の中だけに求めず、
自分の「闇」が「光」を見いだせると知って
自らの「光」を自分が見つけなければ、自分を生きる人生は歩めない。

まわりの「光」は、自分の「光」を見つけるヒント。
ただそれだけ。

「光」を見出すことは「闇」も見つめること。
どちらかだけなのは偏り。

彼のラブレター1通目にはこう記してあった。

ーーーーー
グレーだった思い出が
キラキラと輝くのを
感じた。

僕の中にある
想い出達は
全てが色付いてはいない。
ーーーーー

彼の人生には、連れ添った奥さんを亡くした経験が
大きく刻まれてある。

わたしは幼い頃から病人に囲まれ、小学6年生あたりからは
「死」が人生の中にあることを意識せざるを得ない現実がいつもあった。

その育ちはわたしに・・・

どんな状況、どんな環境、どんな表情、どんな言葉、どんな行動、どんな足音、どんなしぐさ、どんなファッションを身に纏って外側を彩っても、年齢、経験、役割がどうであっても、人には外せない大切にしたいまんまな気持ちが、心のいちばん奥の扉の向こうにあることを感じさせてくれ、その気持ちが痛いほどに何を訴えているか・・・気づけば分かるようにしてくれていた。

わたしはそこから目を逸らすことができない、と言っていい。
いや、そこばかりに心が向いて、
昔から表面的な事実に興味がさほどわいてこなかった。

人は必ず足跡を残す。
表現はそれぞれだが、自分にとって大切な気持ちほど鮮明に残す。

そこにただただ心が向く。

高校生のある時、わたしの親友は急に不登校になった。
失恋し、自分を見失い、人格も声も変わり、後に堕胎を繰り返すように・・・

当初まわりは「失恋くらい・・・」と、立ち直るものと思っていたが、親友の中でどれほどその人の存在がかけがえのないものだったか、手にとるように感じたわたしは とにかく親友に寄り添い続けた。

親友は、かけがえのない人を失ったのだ。
その喪失感は、誰かと、何かと 比べることはできない。

若い時の淡い失恋、と思う人もいるだろうが、親友にはそうじゃなかった。そして、まわりの「失恋くらいで」という声が、何度も彼女の心にのしかかり、彼女はどんどん自分でいられなくなっていった。

わたしは彼女に、本当は何も失っていないと伝えたかったのだけど、その時にお付き合いしていた彼は自分の人生を歩み始め、確かにそこにいて生きてはいるのだけど、もうその時の彼はいないとハッキリ感じるようになってから、彼女の希望が今は見いだせないことも、闇の中に潜っていくことも見守るしかできなくなった。

本当の声を感じるからと言って、何にも役に立たない。
むしろ邪魔だったかもしれない。若かったわたしは、なんとかしたいと強引に彼女に勇気づけをしていたかもしれないから。

親友が何処にいるかも分からなくなって3年が経ったある時、偶然に会う機会があった。その時に彼女の最期の言葉(今思えば)を聞いた。

でも最期の声だけは、変わりはてたガラガラ声ではなく、ずっと一緒に笑い合って遊んでいた時の澄んだ声に戻っていた。

人は必ず足跡を残す。伝えたい人に必ず大切なメッセージを残す。
そんな偶然の機会を天はつくってくれる。

それを確信するような言葉を彼女は残して去った。
その後のわたしの人生には「人は必ず足跡を残す」という彼女が教えてくれたことがよく起こり、その度に彼女を、彼女の言葉を思い出して温かくなった。

起こる出来事は、決して良い気持ちになることだけではない。
信じられないほどの悲しみを感じることもある。けれど、そのような出来事によって、自分が今まで信じてきたものを心底変えられるような感情を味わうことで、人は「光」を知るきっかけをもらい、本当の自分の「光」を、自分の力で見出すのかもしれない。

どうしようもない悲しみや苦しみの出来事は、突然やってくるように、降ってきたかのように思うものだが、それは少し違っていて、その人自身が人生の中で選んできた選択とものすごく関連している。

つまり、
素直な自分の本当の唯一の想いから選択をしたか、していないかで、起こる出来事は大きく変わる。歩む人生の道を象(かたど)るのは、実は自分自身の想いからくる選択でしかない。

関わる身近な人たちも自分の選択から引き寄せるから、互いのエネルギーもまた人生に織り交ぜられていく。

自分の想いが元で、その想いが選択を決め、
それを出来事としてアレンジするのは、天の仕事。

親友が最期に残した言葉、

「雅美だけは本当のわたしを分かってくれていた。
ずっと言い続けてくれていた。なのに一緒にいれなくてごめん。
これからは会おう。だからそのまま変わらないでいて。」

そう締めくくった彼女の言葉と声は、今でもわたしに大きく刻まれている。

そして親友とはその時以降、連絡しても、探しても、会えないまま。
わたしと仲良くしてくれて、深いところで繋がっていてくれて、最期に大きな愛を渡してくれて、ありがとう。

失恋、家庭内別居、不倫、離婚、死別・・・別れは、さまざまなカタチで人生に訪れる。そこから感じる喪失感や罪悪感、悲しみ、苦しみに優劣などはないとわたしは思う。

その人の感じたままがすべて。

だから 失恋ひとつ、夫婦仲がうまくいかないくらいで・・・ではない。
失ってしまった過去の傷も、失いそうな恐れも、ひとつひとつ丁寧に見つめ、自分を愛し続けることを諦めてはいけない。

そこに押しつぶされたら、自分も自分の人生も歩めなくなるから。

彼がラブレターの前に送ってくれていたメールのすべてには、そんなエネルギーが込められているようにわたしは感じていた。


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