隙間を埋めないでおくれ。言い淀んでごらん。そこに世界があるから。
一般的に文章を書くときは、断定口調のほうが説得力を持たせることをでき冗長にもならない、「と思う」や「かもしれない」などのあいまいな表現は避けるべきだ、と言われる。
しかし、私はそうした書き方を悪いとは思わない。「と思う」については好んでよく使うくらいである。
それはなぜかと考えて、己の中につねに「言い淀む」ような感覚があることに気がついた。
私はいま、所属する劇団の公演で演出部という役割を担っている。ごくごく簡単に説明すると、複数人で演出家のサポートをしているのだ。
そこに最近、新しいひとが入ってきた。われわれが募集をかけたのに対して応募してきてくれた男の子で、大学の後輩にもあたる。
彼は自分で、「考えていることを言葉にするのが得意ではない」と語る。それは一見、演出をする立場としての欠点にも思える。
だが、私はそうは思わない。もちろん改善していくに越したことはないが、必ずしもすらすらと言葉を並べられることが相手の信頼を得るに繋がるとは限らないし、「伝える」手段は探せば他にもあるだろう。
この際だから、はっきり言おう。私は流暢に話す人よりも、訥々と話す人の間だったり余白だったりが好きでシンパシーを覚えもするので、彼のそういうところに魅力を感じたのだ。
つまり、あるいは目のまえの男の子に若いころの(いや、今も……?)自分を重ねて、感傷に浸っているのかもしれない。
私が会話で最も大事にしたいのは、テンポの良いラリーでもキャッチボールでもなく、隙間を埋めない空間づくりである。
ぼちぼち観察しているとわかるのだが、隙間を埋めよう埋めようと会話をする人は意外と多い。
決してそのことを非難はしない。それは一種の優しさだと思う。だけど、優しさは時にエゴを生む。人を傷つける。何より押し売りされると窮屈だ。
隙間は隙間で、お互いに保持したまま関わる……深入りしないのとはまた違うのだけれど、やはりそうした関係性に心地よさを感じる。
若いころは自分をアピールしようと、球が飛んできたら返そうと、必死だった。今はベンチに、二人なら二人分のスペースで腰かけて、視線の先を共有する……そんな会話が理想だと思っている。
ここまで書いて、ふと考えた。「言い淀む」って、隙間を埋めないことに繋がるのではないか?
私が目指す方向なのかはさておき、仮に「言い淀む」演出をうまく体系化できたなら、おもしろい作品をつくるのに役立つだろう(当然、すでに方法論を確立している人もたくさんいると思う)。
いつだって、言葉の根幹的な部分は沈黙であり、言葉はその「おまけ」に過ぎない。
だから私は、この文章にも幾度となく出てきた「と思う」「かもしれない」をこの先も使っていく。
これらはいわば、沈黙の表出であり、そこから見えてくる世界があるはずなのだ!
……と思う。かも、しれない……。
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