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『劇場版スタァライト』感想ー劇作家視点で語る「舞台少女の死」ー


はじめに

一年くらい前の話になりますが、知り合いにすすめてもらって『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観ました。

どうか映画まで観てくれと熱心な布教をしながら頼まれたので、テレビアニメを完走し、『ロンド・ロンド・ロンド』も。

次の劇場版はその子に連れられて映画館で観賞しました。

そのとき記したメモをもとに、『劇場版スタァライト』の感想を文章としてここに「再生産」したいと思います。
ネタバレ前提の、『劇ス』を知らない人は置いてけぼりな感想文になっていますが、ご容赦ください。

「舞台少女の死」とは精神的なもの?

まずはこの映画のキーポイント「舞台少女の死」について。

ネットで検索したところ、「舞台に満足してしまったこと」「夢を叶えた後に空っぽになってしまったこと」といった類の、精神的な死と解釈する声が多くありました。
でも、私にはそうは思えなくて……(もちろん、それもなくはないのでしょうけど)。

いち劇作家の視点で話します。
私は常々、俳優はあらかじめ死者であるべきで、演劇とは死を表現するものだと考えています。これは、伝統芸能の能などから知見を得ています。

その考え方からいくと、『スタァライト』という物語に登場する人物たちは、舞台に上がった時点で……つまり我々の前に登場したときからすでに死んでいるんですね。
だから、ばななが言った「もう全員死んでるよ」(でしたっけ?)は、どこか劇中でとかそういう話ではなく、「おまえら最初から死んでるんやで」ってことなんです。

その上で役としても死ぬ、何度も死ぬ、二重三重の死が待っているわけです。
これは「アタシ、再生産」というキャッチコピーにも繋がります。
凡庸な言いまわしになりますが、このアニメはあの世とこの世の境目に生きる少女たちの生と死をくり返し描いているんですね。

観客の分身としての神楽ひかり、大場ななは私たちをも殺していた?

それから「あの世とこの世」という話でいいますと、スタァライトという戯曲が舞台の上、すなわち「あの世」だとするなら、はじめその外側にいたひかりちゃんは我々と同じ「この世」、あるいはそこに限りなく近い場所にいたことになります。

つまり皆を、華恋ちゃんを、ループする時間の中で(輪廻ともとれます)こちら側に引き戻そうと奮闘していたんですね。その過程で輝きをとり戻し、死んでいく。舞台の上……スクリーンの中の物語に、“引き込まれていく”。

この解釈でいくなら、神楽ひかりこそ、観客の分身だったと言えます(そういう意味でも私はキリンのことをただの観客だとは思っていないのですが、この話は長くなるので割愛します)。
私たちは虚構の世界と現実の世界を区別しながらも、やがて映画に没頭することでその境界は曖昧になり、「あちら側」の住人となった。

序盤の名シーンである「皆殺しのレヴュー」で心を鷲掴みにされた人はたくさんいると思います。
あの場面をきっかけに我々が物語に“引き込まれていった”とするのなら、大場ななは観客を含めた、全員を殺していたことになります。

これにはじまり終始、狂言まわしとしての役割を担っていたばななは「あの世」と「この世」の狭間に立つ門番のような存在であり、私はあそこの電車から三途の川の渡し船を連想しました。
すこし話がそれますが、後のシーンで出てくる石積みの刑(星摘みのレヴュー)はここにある「賽の河原」で行われるものとして有名ですね。

愛城華恋、そしてスタァライトの「完成」

それでは、この物語の主役として君臨する、愛城華恋は?

私のこれまでの説明だと彼女もまた死者ですが、今回の映画では「生きている」というニュアンスの表現がたびたびありました。
この先は作り手の頭の中を覗いてみないからには推測でしかなくなるのですが、おそらく、華恋ちゃんが「この世」の住人として描かれていたのは、彼女の「未完成さ」ゆえ……ではないでしょうか。

役者として未完成だから死んでもいない、しかしそこからくる“可能性”も持ちあわせている。
パンフレットには「お客さんに見られている怖さに気づいていない、それは神楽ひかりと並走していたから」とありました。さらには「ひかりちゃんがいなくなって何を思うのか」とも。

私はこれを「スタァライトを演じきり、ひかりちゃんから独り立ちしたことにより愛城華恋がある種の“完成”を迎えた」と捉えています。
それは、この物語……つまり『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の完成をも意味します。

そう、言うまでもないことですが、この映画をもってスタァライトは終わり、「完成」したのです。
そして、新たな「はじまり」が訪れた――――

まとめ

最後に。
ここまで語っておいてなんですが、もしかしたら、今後公式サイドのインタビューなどでこの解釈が否定されるかもしれません(周辺情報をほとんどチェックしていないので、現時点でもう否定されている可能性もあります)。

だとしても、私はこうだと思う気持ち、初見の感想を忘れません。
それが、私なりの『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』であり、観客として彼女たちとともに生きて死んだ、“証”でもあるからです。

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