非日常と日常の逆転によって価値観が変わっていくのを肌で感じる日々
ビックリした。
4月がもう半分終わってた。
なんもしてない、ビックリするくらい何もしてない。完全に『失われた4月』である。
しかし、この『失われた日々』がとてもGW明けまでで終わるとは到底思えず、失われた春、失われた夏、失われた2020年と、どんどん長引いていくであろうことは既に覚悟している。
なんとも恐ろしい事態である。
例え、緊急事態宣言が解除されたとしても「じゃ、今日からいつも通りに!」というわけにもいかないところがまた怖い。季節外れのインフルエンザに罹ってしまうように、自分自身が免疫を持つまではいつだって罹るリスクはあるわけなのだから。
と私は思っているのだが、一方では「緊急事態宣言解除されたぁーー!!」と開放的な気分になって集まる人がたくさん出てきそうで、個人的にはそれが一番怖い。これまでの自粛努力、全て水の泡、的な。
こうなってくると、いやはや普通ってなんだっけ?という気持ちにすらなり、過去のライブ映像なんか見ていると「密!密!!この空間密すぎる!!」とドキドキしてしまうのだからかなり毒されているように思う。
もはや今となっては、そのときの方が非日常にすら感じてしまう。
つまりは、今のこの『非日常』が『日常』になってきているのだと思う。
非日常が続くと疲れてしまう。それゆえ、決して今の生活を望んでいるわけではないが、なんとか適応しようと体が心が頑張っているのだろう。
そんな非日常と日常の逆転を経て、最近よく感じることがある。
「今日も元気」「今日もニコニコしてる」「今日もかわいい」
子ども達のそんな様子を見るだけでホッとするし、嬉しいし、幸せを感じられる。
家から一歩も出ず、タブレットやテレビ三昧で、なーんもしていない日々だけど。それでも、子ども達が元気でいてくれるだけで幸せ。
なんというか幸せを感じる沸点が低くなったような感覚なのだ。
ストレスは確実に溜まっているはずなのだが、子どもに対して怒ることが少なくなったことには自分自身とても驚いている。
行動の範囲は狭くなったし、自由度も少ないけど、でも私にはこの子達がいる。この子達がいてくれてよかった。
子ども達と出会えたことに対し、心から感謝する日々なのである。
(守りたい対象がいるからこそ不安を感じる日々でもあるのだけれども)
生きていると、事故や災害にあう可能性、犯罪に巻き込まれる可能性、病気になる可能性、どれもゼロではない。
自分がいつか死ぬであろうことは決まっていることであるのに、死に突然直面する可能性もゼロではないのに、通常の日々においてはそのことは基本頭にない。
これまでの人生、実にのほほーんと過ごしてきた。今日も一日無事に乗り切れることを前提として過ごしてきたのである。
だからこそ、この『いつ自分が生死を彷徨うかわからない』『いつ自分の大切な人がそんな場面に陥るかわからない』という状況というのは大変なイレギュラーだと感じる。
『生きている』それが何より大切。
それはどんな状況でも同じなのに、なぜか「当たり前」とされがちなこと。つい、当然のように生きていられる前提で物事を考えてしまう。
「もし自分が罹ったら」「もし子ども達が罹ったら」今はそんな起きて欲しくはない状況を毎日考え心配してしまうだけに、今日一日何事もなく過ごせたことだけで嬉しい気持ちになる。
生きている、そのものが幸せ。
子どもが元気、それだけで本当に幸せ。
逆に考えると、これまでは、生きている状況にあれこれオプションを加えないと幸せを感じられなかったようにも思う。
それは自分に対してだけでなく、子育てにおいても同様。
最初は元気に生まれてきてくれただけで満足していたはずなのに、期待して欲を出して、あれこれ与え続けてきたと感じる。
きっと人生においてプラスになるはず、この子のためになるはず。
そんな風に子どものために奮起する自分であるべきだと思ったし、そうすることが子どもの幸せにつながると信じていた。
でも、「生きているだけで幸せ」だと感じる日々を過ごすうちに、考えがかなり浄化されたように思う。
それって本当に子どもが望んでいたことなのかな。
私が一方的に押し付けていたこともあったんじゃないかな。
こうあるべきにとらわれすぎていたんじゃないかな。
先日の記事にも書いたことではあるけど、自分の中のこだわりが無くなっていくにつれ、子どもに対する思いとか、自分の浅はかな欲とか、日々むき出しになっていくのを感じる。
諦めともまた違う感覚。
この子にはこの子の人生がある。
そんな当たり前なことを改めて実感できたように思う。
私が思う「この子にとって良いであろう人生」と、子ども達が思う「良い人生」は異なるわけで。
この子達は、たまたま私から生まれただけ。私には育てる義務があるけど、かといってこの子達が親の考えを受け入れなきゃいけない義務はない。
人生の先輩として、相談をされたらこたえたいとは思うし、この子達の興味に対するサポートはしていきたい。
でも、今までのようにあれこれ良いと思ったものを与え続けるのはやめよう。良くないと思ったものを一方的に制限するのもやめよう。
今はまだ小さい子ども達。
でもこれから先、子ども達が成長していくにあたり今まで以上に自我が芽生え、親を疎ましく思う時期が訪れ、私や夫と衝突する場面も多く出てくることと思う。
その日々が訪れる前に、この気持ちに気づけて良かった。
今この日々を過ごす中で感じたこと。
『当たり前』が『当たり前』じゃなくなって、ようやくその『当たり前』と真剣に向き合うことが出来たこと。
世が落ち着いたと同時に忘れてしまうことのないよう、ちゃんと書き留めていきたい。
そして、それが後に活きるよう活かせるよう、今をしっかりと生きよう。
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