見てるってば、聞いてるってば。
娘が昨日卒園し、もう間もなく息子も春休みへと突入する。
全国的に休園になっている幼稚園も多く、また小中高生に関しては有無を言わさず春休みに突入している昨今、元の予定通り幼稚園生活を送ることが出来たわが家は非常に幸運だったと感じる。
とはいえ、習い事は現時点で全てお休みとなっており課外教室もお休みで発表会も中止となってしまった今は、イレギュラーな生活を送っていることには変わりはないのだけれども、それでもなんとか『幼稚園』という存在のおかげで非日常に疲れは感じながらもメンタルをどうにか保つことが出来た。
幼稚園様々なのである。
さて、件の春休みである。
頼りの幼稚園が無くなり、そのメンタルはどうなるのだろうか。
息抜きのお出かけ、習い事、全てがないわけである。
考えなくてもわかる。
既に春休みに強制的に突入している周りの方々の悲鳴は明日のわが身。
私も早々に悲鳴をあげると既に怯え覚悟しているがゆえ、ディズニーデラックスというディズニー映画見放題のサブスクへの加入を考えてしまっているのだ。
↓気になる気になる気になる
私は自分の子どもが好きだ。好きでないわけがない。大好きだ。めちゃくちゃ大好きだ。
それでも「子どもとベッタリ一緒に過ごす時間」は長ければ長いほどしんどくなる。
好きなのに辛い。なぜなのだ。報われぬ愛でもない、相思相愛なのに。
それはなぜか。
相手の愛がどでかいから、に尽きる。
相思相愛どころか、愛されちゃって愛されちゃってもう。未だかつてここまで愛された経験のない私は、その愛を未だに時折受け止めきれずにいる。
愛が過ぎる子ども達(今は主に息子)は、常に自分を見て欲しいし、常に自分の話を聞いていて欲しい。常にだ。
余裕のあるときならいい。でも、そうじゃないときも常に求められる。
自分に常に全ての愛を向けて欲しくてたまらないのだ。
「見てて~」と言われてチラッと目をやるだけでは許されない。
そのよくわからない事柄が最後まで終了するまでちゃんと見届けなければならない。
「聞いてて~」も同様、サラッとだけ耳を傾けるだけでは許されない。
そしてこの「聞いてて〜」は高確率で「え〜っとね、あのね!」と会話が振り出しに戻りがちだ。お願い、聞いてるから続きから話して。
無論、その間自分の作業は中断なのである。
反応に困惑する事柄ががほとんど。それでもリアクションはしなければならない。
「ママ見てて~!」と言われたので作業を中断して見たら変な顔してるだけだったり、「ママ聞いて~!」と言われたので作業中断してみたら「おパンツ!」と突然言われただけだったり。
もはやリアクションが出来ない。どうしよう。
なんというか、ベッタリ過ごしていると目と耳が疲れるのだ。意識を傾けるのに疲れてしまう。その結果、情報のない世界へ逃げ込みたくなる。
こちらに余裕のないときには、チラッと見たりサラッと聞いたりするだけでも許してほしい。
親なんだからそんな冷たいこと言わないの。なんて思われるかもしれない。
たまにならいい、それが常なのだ。エブリデイでエブリタイムでオールウェイズなのだ。
愛しきわが子とはいえ付き合いきれず「うん、もういい?」「ちょっとごめん、お茶飲んでくる」って言いたくもなる。
いや、ごめん、実際言っている。
最近夫からも「リアクション冷たいよ」と指摘されたばかりだ。
いや、いつも聞いてるんだって。リアクション薄くもなるって。
個人的に一番「だぁぁぁーーーー!!」となる瞬間は二人同時に話されたときだ。
ちょっと待て、もう聞き取れなさすぎて雑音にしか聞こえない。何々、ちょっと待って。
順番に話して、と言っても「私が!」「僕が!」でどちらも譲らず、最悪順番に揉めて喧嘩になったりする。
ホント喧嘩はやめて。喧嘩が一番ストレスたまるんだよ…
話す順番決めるだけじゃないか…
嗚呼…。
作業を中断するのも辛い。
大体、なぜ人間の目は左右同時にしか動かないのだ。
せっかく二つも目があるんだ、右と左で別のものが見れたっていいじゃないか。
自分のやりたいことに意識を傾けつつ、他方で息子からの見て欲しい欲を叶える。こんな合理的なことはないと思う。
人間よ進化しようぜ...
嗚呼…。
それが繰り返される春休み。
いつもならあるはずの逃げ道がない。
嗚呼…。
こんな時間を、既にもう過ごされている方が大勢いらっしゃるわけで。
頭があがらない…
私ももうすぐそちらの世界へ行きます。
カメレオンのような目を持ち、聖徳太子のような複数の言葉を聞き分けられる耳を持ち、聖母のように数多の事柄を受け止められる懐の深さを持つ。
そういうものに、私はなりたい。
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