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すれ違わない思い出、すれ違う思い出:30×30 pair.195『私見感×白河夜船』

私見感『宇宙人に攫われるまでの話』

 舞台上には、小さなテーブルと2脚の椅子。それからテーブルの下には多くの真っ白な紙が組み合わされ、ラグのように敷かれている。椅子に座るのは、男と女。そこに宇宙人が現れ「3人」の会話により物語は進行する。

 食器がカチャリと音を立てることは、なんだか意味深だ。しかし本作においては、何度ソーサーにカップを置いても何も聞こえない。おそらく食器は、白い紙で制作されているのだろう。目にはお茶を飲んでいるように見えるが、耳はそうではない。不思議な時間が流れる。

 男と女は、今まさに永遠かもしれない離別の瞬間を迎えているため多くの言葉を交わす――と言っても、セリフとしての言葉数が極端に多いというわけではない。ふたりの思い出の中の言葉が、現在の言葉から引き出されることによって、発声されない、しかしながらふたりにとっては共通の思い出として「聞こえる」多くの言葉で溢れているように見える。限られた時間のなかで、男と女が交わす言葉に食器がカチャリと鳴るような雑音が入り込む余地はなさそうだ。

 舞台上の壁は真っ黒で、そこに白い枠が設置されている。その枠は作中で「窓」として扱われ、登場人物は時折窓から外を眺める。視線は明らかに遠くの景色を見ているのだが、実際には壁であるため、きっと何も見ることができない。これからのことが何も見通せない閉塞感を、観客もこの窓を通して感じることができるのではないだろうか。

 物語もさることながら、視覚により際立つ余白の表現がおもしろいと感じた。

白河夜船『白河夜船 ー浮舟ー『モノグラム』』

 「解釈違い」と言ってしまえばそれまでなのだが、演出全般におけるノイズの多さが気にかかった。

 主人公である栗原一造は、自分の身に起こった簡単には飲み込みがたい出来事を物語化することにより、そして何度も繰り返し話すうちに次第に受け入れる(あるいは受け入れざるをえなくなる)――というプロセスを経たのではないだろうか。物語には描かれていないものの、ついそんなことを想像したくなる。きっと最初は胸や喉がつかえるかのように言葉はつかえ、うまくは話せず、次第に淀みなく時にはサービス精神をもって「語りだけ」で聞き手を楽しませようとする。そうして、もうひとりの登場人物である田中に話した形が完成されていったのではないだろうか。

 その意味では、本職が落語家である月亭太遊をキャスティングしたこと、それ自体が大ファインプレーであることは疑いようもない。聞き手としての田中(あるいは観客)を引き込むための方法を熟知していること、悲しみとよろこびの駆け引きが巧みであること。そういった「語り」の魅力が、演劇と落語を行き来しながら声と視線のみで表現される。

 一方で、語りではない表現も多く見られる。例えば山中麻里絵が演じるお園は、栗原に向ける感情を般若の面をかぶることで表現している。その後の、栗原に甘えるような山中の演技は秀逸で(長く連れ添った妻が見せる思わぬ表情はきっと魅力的なはずだ)、だからこそ甘え/可愛さと対比となる感情の発露が「般若」で代替されてしまうことには、もったいなさを感じる。(『ゴメラの逆襲 大阪万博危機一髪』で山中が演じる二瓶の心変わりも魅力的であったため、余計に……。)

 栗原が早口(かなり早口)であることは、観客が内容を理解する上では、きっと問題なかっただろう。そのスピード感を維持したまま、感情面での緩急を感じさせることにも成功しているように思う。イベントの特性として30分という時間の制約があり、きっともっとゆっくり話せばより効果的に駆け引きできる場面もあるはずで、しかしそれは仕方のないことで……。制約を、話芸の技術で乗り越えるということは感動的でもあった。しかしながら物語本編のあとに派手な音楽でのダンスの時間があり――これは個人の感想でしかないが――本編の語りの技術/完成度と、ダンスのチープさの落差があまりに大きく、本編終了まで積み上げられた登場人物の心の機微が霧消してしまったように思えた。

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