セミ忍者の環世界

生き物にはそれぞれ見えている世界がある。人間の五感で感じ取れるこの世界は、人間が見えている世界で、蟻や蝶や、犬、猫はそれぞれ別の見え方をしている。このように、生き物それぞれが自分が見えている世界を環世界という風に言うらしい。それぞれ見えている世界が違うのだ。

どうやら、みんなにはぼくが見えていないらしい。存在感が薄いというのもここまでくれば、人間の域を超えているのではないかとぼくは思う。遠足のグループ分けをしてぼくだけどこにも入ってないのに先生も気づかなかったし、1年生で初めての体育大会に行かなかったのに誰も気づいていなかったし、授業中うっかり居眠りしちゃって音楽の授業に出そびれたのに誰も気づかなかった。みんなの環世界では、ぼくはきっと見えづらいのだ。

そうは言っても、流石にここまで存在感が薄いと、中学1年生の冬くらいから、それが逆に注目されるようになった。最終的にはぼくは存在感が薄すぎて、自動ドアが開かないらしい、という都市伝説が出回り、ぼくはそこそこ話しかけられる人気者となった。あまりの存在感の薄さから、忍者と呼ばれるようになった。でも、元々トークの技術や、ルックス、特技などがあるわけではない。ぼくを舐めないで欲しい。全てにおいて、良くも悪くもないのだ。存在感が薄いとはそういうことだ。忍者人気は1ヶ月も経たないうちに消えていき、またみんな環世界から、ぼくの存在は薄くなっていった。

でも、こんなぼくでも凄まじく存在感を出すときがある。正確にいうと年に一度むちゃくちゃに存在感を出す月がある。それが8月だ。8月の1ヶ月間だけ、ぼくには不思議な力が宿る。まるでその1ヶ月間のために、11ヶ月間かけてパワーを貯めていたかのように、8月の間だけ、あらゆる注目がぼくに集まるように神様がシナリオを書いているのかと思うくらい、全女子がぼくに注目をしているのではないかと思うくらい、1km先の自動ドアが開くんじゃないというくらい、強烈な存在感をぼくはまとう。学校に行けばみんなにおはようと言われ、友達と一緒に遊びに行けば(友達くらいはいる)テレビのロケ班に該当インタビューされたり、蕎麦屋に行けば10年くらい前に大人気だった天才子役が大きくなった姿と間違われ店に飾るサインを書かされた。

そのため、なぜよりによって夏休みというシステムがあるのか、ぼくはとても腹立たしかった。8月はほとんどが夏休みなので、学校のみんなはぼくの存在感をあんまり知らない。8月末の1週間くらい、ぼくはみんなの環世界に色濃く登場するが、9月からは元通りだ。どうして、こんなに8月に集中するのだろうとぼくは自分の特性を呪った。みんなからは忍者と呼ばれるが、ぼくは密かに自分のことをセミ忍者と名付けていた。セミはでもぼくよりもさらにペース配分が下手で、7年間地中に潜っていて、1週間あのけたたましい泣き声を張り上げて続けてありったけの存在感を開放する。セミに比べれば、ぼくはまだいいペースで生きていると思う。

そんな折、3年生の夏休み、ぼくの存在感はついに高みへと到達する。女の子に告白されたのだ。その子は突然ぼくの家にやってきた。アイスを食べてだらだらしているとピンポンと鳴ったのでドアを開けるとその子はこのクソ暑い中、自転車のハンドルを握ったまま、神妙な面持ちで立っていた。
「2年のナカムラミサキといいます。急にすいません。あのー、、、実は前から好きでした。」
8月とはいえ、こんなことになるのかとぼくは「へ?本当におれで合ってる?」確認せずにはいられなかった。きっと8月がなければ、こんなことにはならなかっただろう。全ての存在感を8月に集中させなければ、ここまでの成果は得られなかっただろう。ありがとう、8月。

そんなわけで、ぼくは人生初の彼女ができた。彼女は多分校内でも特別目立つ存在ではないのだろうけれど、とても可愛かった。少なくともぼくにはそう見えた。一緒に映画に行き、お祭りに行き、初キスをした。ぼくは乗りに乗っていた。デート中も類稀なる存在感を発揮するぼくに彼女もうっとりしていたと思う。彼女のことが好きで好きで、いつも彼女といたかった。ぼくの環世界では、彼女の存在が一際色濃く写り、特別いい匂いがして、声が脳内にこだまし続け、繋いだ手の感触をしっかり手が覚え、キスの味が体いっぱい広がった。

彼女でいっぱいの8月を過ごしながら、でもやはり不安は消えなかった。ぼくの存在感は8月限定。9月になるとぼくの存在は忘れ去られちゃうのではないか。なんであんなやつを好きになったのだろう、と不思議に思うくらい、彼女はぼくのことを好きではなくなり、一夏の恋的なキャッチフレーズを付けられて、簡単に片付けられるのではないか。ぼくはいつも不安だった。

ぼくは人生で初めて足掻くことにした。9月になれば存在感が消えるからなんだ、そんなギャグみたいなぼく専用のルールで彼女のことを諦められない。ぼくは自分の力で彼女の環世界に居座ってやる。セミだって1週間しか生きられないって言うけど、1ヶ月くらい生きるセミもいるって言うじゃないか。いつかふられるかもしれないけど、根性で延命してやる、そう決めて、8月31日の夜、ぼくは彼女を外に呼び出した。

「ぼくはミサキが好きだ。でもきっと9月になったら、ぼくのことを忘れてしまうと思う。ぼくの存在感は8月限定だ。なんか、いつもそうなんだ。ぼくはどういうわけか、8月に1年の全ての存在感が解放されるようになっているんだ。うん、意味わからないよね。わかるわかる。あ、うん、星は綺麗なんだけど、そっちじゃないんだ、今日は。星のロマンチックな感じからのキスが狙いじゃないんだ、今日は。明日からね、もしかしたら、びっくりするくらいぼくは薄ーく見えるかもしれない。でもこれだけは覚えておいて欲しいんだ。ぼくにはミサキがめちゃくちゃ色濃く見える。その他全部が背景と化してピンボケしているくらいだ。だから、どれだけミサキからぼくが見えにくくなっても、ぼくがすぐにミサキを見つけて、ミサキに喋りかけて、触って、キスをして、ぼくの色を濃くしてみせる。意味不明だよね、とにかく好きなんだ。」

9月1日からぼくは運命に抗い、必死にミサキにアピールをし続けた。奇跡は起こせるものです。ぼくとミサキの関係はぼくが卒業するまで続いた。卒業後、ぼくは鮮やかに忘れ去られ、ミサキの脳内はバスケ部のエースで上書きされてしまった。でも、1ヶ月しかない命を半年以上も延命させたのだ。ぼくはきっと変われた。セミからも忍者からも、ついでに中学校からも初めての彼女からも卒業した。あの8月31日の夜に全てが変わったのだと思う。

#8月31日の夜に

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