「どちらにも問題があるよね」を「つながりの言葉」に翻訳してみた。
本日二つ目のnote。
さっきのつづきを書きます。
つづきまして、中田敦彦さんが紹介していた「ずるい言葉」という本に出てくる、
「どちらにも問題があるよね」
という言葉をサークルメンバーと探求。
これは私たちも、耳が痛いな。。。ってなった。子どもたちの喧嘩を見てて、つい「どっちも悪いわ!」と言ってしまう言葉であったり。。
紹介された本の中では、こんな例でした。
宿題を出したAくん、
出してないと言う先生、
「ちゃんと出しましたよ!」というAくん、
結局先生のところにあった。
そして、先生から言われた言葉は、
「気をつけろよ!」
え?オレ?!ってなるAくん。
そしてそのことをBくんに聞いてもらったら、
「お前も先生にそんな言い方するからだろ。どっちにも問題があるわ。」
と言われ、
え?なんで!?!となるAくん。。
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なるほど。。
そして、動画の中でこの本でのどう対応するかのアンサーを説明していたんだけど、
「Bはどちらが正しいか断定したくない。どっちにもコミットしたくない。最も楽な選択をしているんです。コミットメントしたくない人なんだと理解をして離れましょう。」
えぇぇぇーーーーっっ!!!
わたしと友人にとっては衝撃でした。
これは掘り下げてみよう。
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登場人物は3人。
3人ともに順番に探求してみます。
まず先生の心に寄り添ってみる。
先生にはまず「恥」の感情がありそう。
自分がしっかり保管できていなくて、生徒のせいにしてしまった恥ずかしさ。
先生という立場もあるし「尊厳」が失われるこわさ。
思わず「気をつけろよ!」と立場の強さ・パワーを使い、相手のせいにして恥を感じないようにして、自分を守ったのかもしれない。
そして、もしかしたらAくんに学校の中で、なんて言いふらされるかわからない。
学校という場での「信頼」や「所属意識」というニーズが脅かされるこわさもあるかも。
うん。。先生も大変だ。。。
そしてAくんに心に寄り添ってみる。
「気をつけろよ!」と言われたAくんは、きっと相当モヤモヤしただろう。
なんで俺が?!
いや、ちゃんと出したし!
ちゃんと保管してなかったのは先生じゃん!
先生との間の「信頼」。。信じてもらえなくて悲しかったよね。。なのにさらに「気をつけろよ!」と言われ、その言葉からはとても「思いやり」は感じられなかったんじゃないかな。。
そらモヤモヤするよ。。
悲しいよ。。
そしてさらにそれを話した友人Bくんからは「どっちにも問題がある」と言われちゃうもんだから、もう絶望的。。。
「共感」してほしかったよね。。
「思いやり」の言葉が欲しかったよね。。
「理解」して欲しかったよね。。
Bくんとの間にある「信頼」や「つながり」が失われるような悲しさもあるのかな。。
辛すぎる。。。。。
では、最後にBくんの心に寄り添ってみる。
「どっちにも問題がある」という言葉の奥には、どんなことを大切にしていたのだろう?
Bくんにとって大好きな先生なのかもしれない。
Aくんのことも大事な友達なのかもしれない。
どちらかの味方になるような言葉は、できれば言いたくなかった。もしかしたら、本当はどちらも大切にしたい、でも別の表現ができなくて出てきてしまった言葉だったのかな?
先生とAくんに対して「公平さ」「平等さ」を保ちたかったのかな。
先生への「配慮」や「尊重」もあるのかな?
また、Bくんにとって怖い先生だとしたら?
Aくんだけの身を持つことを言ったら、自分の立場も危うくなるこわさもあったかもしれない。
もうこれ以上この件をややこしくしたくない、学校という場で自分にとって「安心・安全」の環境を守りたかったのかもしれない。
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ここまで想いを馳せてみると「気をつけろよ!」という言葉も「どちらにも問題があるよ」という言葉も、【言葉そのものではない】とわかる。
さらに、サークルで友人が、
「先生にもさ、忙しくて仕事や時間に余裕や自分のスペースがなかったんじゃないかな?」
と。
なーるーほーどー!!
めっちゃ勉強になる!!
確かに、先生に余裕があれば探す時間はあったかもしれない。そしたらそんな出来事すら起こらなかった可能性もある。
そして、忙しくてその出来事がたとえ起こったとしても、先生自身が自分自身とつながって、忙しくて余裕がないことが自覚できていたら、
「バタバタしていて今ちょっと目一杯でな。。探せていないのかもしれない。。すまんが5分でいいから一緒に探してくれないか?」
と、Aくんにサポートを頼むこともできたかもしれないし、
Aくんだって、
「先生忙しそうなんで、僕も一緒に探してもいいですか?」
と言えたかもしれない。
そしたら見つかったとしても「気をつけろよ!」なんて言葉は出なかっただろうし、
その言葉自体がなかったらAくんもモヤモヤせずに済んでいて、
さらにBくんの「どっちも問題がある」という言葉も出ずに済んだわけで。。
思いやりを持って、お互いの心に想いを馳せることができたら、そもそもそんな出来事自体が起こらなかったかもしれない。
(そして、先生がそもそも忙しいというシステムの問題かもしれない。)
という着地点。
やっぱりいいなぁー♡
このNVCの世界観♡
ちなみに、
Bくんが公平さや平等さを大切にしたいのであれば、「どっちにも問題がある」という言葉を、
「えー!Aは出したんやろー!?先生にしっかり保管して欲しかったよなぁ。疑われて嫌やったやろー。。それにしても、先生もどないしたんやろ?なんか忙しくて最近余裕なさそうやんなー。。」
と、バランスを保ちつつ、どちらに想いを馳せることもでき、自分のことも守ることができたかもしれないなーって。
ツラツラと書いていますが、ずるい言葉が悪いとか言っているんじゃまったくないんです。
本当はこんなことを伝えたいんだって奥をみることで、可能性が広がる、世界が広がるってこと、
その奥には美しいニーズがあって、それはとてもあたたかいものであるということ、
ということに気づけると「ずるい言葉」も・・・
なーんだ!!
めちゃくちゃ愛おしいじゃーん♡♡♡
ってなる。
そんな域に達しました。笑
「ありがとう」と「ごめんね」が言えればいい、最近は言葉を複雑に考えすぎだっていう声もNVCを伝える上で、聞こえてきたことも何度かあるんだけれど、
わたしだってそれは大いに賛成っ!!
シンプルがいいよ、ほんっと!!
みんなが思いやりを持ち、自然と分かち合える世界であるのであれば、NVCなんていらない。
でも正直、今のこの時代にはなかなか難しいんだよね。。
「ありがとう」と言いなさい。
とりあえず謝りなさい!「ごめんなさい」は!?
親の言うことを聞け!
こうするべきだ!こうあるべきだ!
これが正しい!お前は間違っている!
今はそんな世の中で、
心の中の本物の言葉を言えない、
心が伴っていないことを言わないといけない。
すると、結局恨みが残ったり、
モヤモヤが残ったり、痛みになったりする。
理不尽なことが多くて、
我慢することが多くて、
自分の心を殺している、
心の声に蓋をする、
自分の声は大事じゃないとする、
自分の存在・命を蔑ろにする。。
そうなると、
もちろん相手を大切にすることも難しくなる。
自分を大切にできないと、
相手を大切にすることはむずかしい。
だから世界はややこしくなっているんじゃないか。
だから、今はNVCが役に立つ時代なんじゃないか、とわたしは思っている。
何度も書いてきているんだけど、NVCはなにも新しいものはない、みんなが生まれたときに持っているものを思い出すために役に立つある一つのプロセスなんです。でもそれがすごくパワフルなんだよね。
だからみんなが思い出したときには、必要なくなる時代もくるとも思っている。思いやりと分かち合いに溢れる世界が来るとわたしは思っているから。
自然と共感に満ち溢れた世界は、共感を学んで思い出す必要もない。なんなら「共感じゃない」なにかおもしろいものがその時には人気になっているかもしれない。
その日がくるのが楽しみだ♡
だから今のわたしはnoteを通して、わたしの中にあるNVCをせっせと可能な限り書き続けているのです♡
ではでは、
今日は二つ書けてよかった♡
自分や相手の言葉の奥に
意識を向けてみるハートフルな一日を。
また明日ココで♡
循環が循環を生むのがすきです。サポートしたいただいた循環を、文字で循環していきます♡