見出し画像

用いる道具によって結果は変わるか

むかし、物作りをしている知人が「結果が同じならどんな作り方をしても同じだろう」ということを言っていた。
これは、機械を使うかあくまでも手道具にこだわるかというような会話の中で出てきた言葉だったのだけれど、彼からすれば手間と時間が省ける機械の方を肯定したいという思いがあったのだと思う。たとえばクラシックギターの製作家には未だに手道具にこだわる傾向が強い人も多く、どうも彼にはそれが腑に落ちないようだった。

私自身も楽器製作の過程で多くの機械を用いているし、機械を使うことに対して完全に否定的な態度をとる資格は初めからない。
それでもなお、加工の多くを手道具で貫いていこうとする製作家の姿勢に共感と憧れがあるのもまた事実であって、それが何に由来するものなのか、いつも頭の片隅にその問いがある。

たとえばカンナで木を削ることと、機械でそれを行うことには、どのような違いがあるだろうか。その仕上がりがもしもほとんど見分けがつかないものだとしたら、そこに手間と時間以外に違いはないのだろうか。

このことは、たとえば同じ酒を気に入りの猪口で飲むのと安物のプラスチックのコップで飲むのとで違いはあるかないか、と問うてみればわかりやすいのではないかと思う。
器の中の酒の成分は変わらない。しかし、器に注がれた酒を口に運び、それを味わった末のその美味しさにはやはり確かな違いがあるということは、人間的な感覚に正直であれば認めざるを得ないことではないだろうか。
体に吸収される成分に違いはない。けれど結果的に生み出される感覚は違うのである。ここには、酒を呑むということ、つまり酒と人との交わりが、器というものによってどれほど変化させられるかということがあらわれている。

同じことは、物を作る際にも言えることではないだろうか。
機械を使うか手道具を使うかの選択によって、作り手の素材に対する姿勢というものが変わってくる。そしてそのような作る側の姿勢や心持ちの変化は、生み出そうとする最終形のイメージに影響を与えずにはおかない。

初めに最終的な形を決めてさえおけば、機械だろうと手道具だろうと、同じ形に仕上がるわけで、そこに違いは生まれないと思うかもしれない。
けれど実際の物作りというものは、はじめに立てた計画に沿ってその計画と寸分違わない結果を生み出すというものばかりでもない。
それとは違い、作りながらつどつどの結果を見つつ考え工夫し、そのようなフィードバックの連なりによって最終形を変化させていくようなやり方もある。
これら作り方の違いというものは、まさに道具や機械の選択によって大きく左右されるものだと思う。そして作り方が変われば生み出される作品もまた違ってくる。すなわち、機械や道具の違いが、生み出される結果の違いをも生じさせるということである。

ようするに、用いる道具が違ってしかも仕上がりが同じになる、などという前提はそもそも絵空事に過ぎない。
実際には、用いる道具が違うなら、手や機械を動かし始めるその時から、いや、そもそもどのような道具や機械を選択するかという作り手の製作に対する心持ちの段階から始まり、その完成形があらわれるまでの過程の全てにおいて違いが生じていると考えるほうが現実に対して忠実な見方であろうと思う。

道具の違いは、作り手の製作に対する姿勢や実際の作業工程に影響を与え、ひいては生み出される結果をも変えていくのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?