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捨てる神あれば拾う神あり、されど神は人の作りしもの

『デオナール アジア最大最古のごみ山』
著:ソーミャ・ロイ 訳:山田美明
読了レビューです。

文字数:約1,800文字 ネタバレ:一部あり


 インドの中西部にムンバイという市街県および市があり、その市街地の端にあるデオナールごみ集積場に生きる人々、それが本書の主人公だ。

 そもそも「ごみ」とは何だろう?

 以前にレビューした本の著者、ごみ清掃員芸人の滝沢秀一さんがいつだったか、次のように話していた。

 この世界に「ごみ」として生み出されたものはありません。

 たしかに世界の万物は何かのために形を得て存在しており、空気中に8割ふくまれていながら呼吸には利用できない窒素も、人体を構成するタンパク質、アミノ酸として欠くことのできないものだ。

 それでも人類は豊かさを求めて物品を作り、やがてそれらは「ごみ」となって捨てられる。

 どんな人でもごみを出すし、現代の生活において一切のごみを出さない生活は不可能だ。


 本書の舞台となるデオナールには、分別されないごみが山脈を形成しており、そこから再利用可能なものを拾い集めてお金を得る「くず拾い」という職業を生み出した。

 まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」を体現しているものの、再利用もできない生ごみはやがて発酵して燃え上がり、発生した有毒ガスを市街地へと送り届けた。

 誰の目にも見えるところにありながら誰の目にも見えなかったデオナールのごみ山が、110年の時を経てムンバイに戻ってきた。あらゆる住民の生活や記憶の燃えかすを運んできたのだ。

8章 火災 p127
(本文中の数字は漢数字)

 発展した都市の影がデオナールを作り、それが都市へと逆流するのは皮肉としか言えない。

 深刻すぎる大気汚染への対策として、すでに頓挫していた処理場の建設が再始動するかに思えたが、膨らんでは消える泡のように計画は実行されないまま、本書の紙面は尽きてしまう。

 それでもごみ山は社会問題として認知され、それを利用して生きる人々は法を犯す者として排除されていく。


 ごみ山で生きる人々が健康であるはずもなく、ごみに混じったガラスや鉄線などに肌を切られ、燃える大地に足を焼かれながらも、多くの人はごみ山から離れることができない。

 なぜか?

 ごみ山からその日の収入を得るばかりで、ほとんど学校に行かないまま成長した人間にとって、他に生きる術を見つけるのが難しいためだ。

 父親が借金を作って失踪したメーハルーンについて、次のように書かれている。

 メーハルーンが口にする12歳の少女らしい話題と言えば、廃棄された人形を集めていたのだが、何度も同じ家への出し入れを繰り返すうちになくなってしまったということだけだった。

20章 選挙 p292
(本文中の数字は漢数字)

 彼女の母親は薬の治験によって収入を得るべく、家を何日か空ける。そのたびにメーハルーンをふくめた子供たちは別の場所で過ごしたそうな。そして巻末に「17歳で婚約した」とある。

 親の収入が子供の収入と関連するという話があり、それが本書に登場する人々にも当てはまるとするのは、いささか乱暴かもしれないと思いつつ、完全な筋違いというわけでもないだろう。


 とても健康的とはいえない、むしろ劣悪な環境に暮らす人々の体調が良いはずもなく。

 彼らもそれは分かっており薬を使うこともあるけれど、一方で神仏への祈祷に頼るのが国民性というべきなのか。

 そもそもごみ山には悪霊がいて、それが人に取りつくのだという考えもさることながら、祈祷によって快復を願える思想がすごい。

 著者も言及しているけれど、彼らはそうした思想で現実を見ないようにしているのかもしれず、生きるための手段とはいえ心に迫るものがあった。


 これを書いている私もまた現代の都市の片隅で暮らしており、日々ごみを生み出さなければ生きられない。

 さすがにそれ自体を罪だとは思わないけれど、この先も人類が今と同じ生活を続けられるとは考えにくい。

 実際、夏が暑くなり豪雨による洪水などの被害も増えており、反対に雨が降らなくなった国や地域があると聞く。

 それは地中に埋まった炭化水素、つまり石油などの「資源」あるいは「ごみ」を再利用しているのが、要因として大きいとされる。

 本書を読んでいて、ごみ山に生きるくず拾いと私とで、さほど違いがないように思えたのは気のせいだろうか。

 あらためて冒頭の言葉を思い出してみる。

 この世界に「ごみ」として生み出されたものはありません。

 私たち人類もまた、この世界に存在しないはずの「ごみ」ではないと信じたい。



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