わかりやすさが しみるわな
【文字数:約1,300文字】
いつも聴いているラジオ番組に池上彰さんが出演しており、次のように話していた。
内容としてはNHKの記者をしていたときの話や、「週刊こどもニュース」の担当になった経緯などに触れつつ、テレビで見聞きする語り口よりも冴えているような印象を持った。
ただ、それは時事問題を扱う解説番組でのイメージに引っぱられており、選挙特番で言われる「池上無双」が元・記者としての本来の姿なのだとか。
ジャニーズ事務所の会見についても意見を述べており、やり取りの中で「忖度力」という辛辣な言葉も出た。
テレビ局は池上彰に頼り過ぎではないか、という意見をどこかで見聞きした覚えがあり、そのせいか以前よりも印象が良くなかったけれど、今回の話しぶりには好感を持った。
森永卓郎さんが外も中も芸人寄りだとするなら、池上彰さんは見慣れた笑顔で「いい質問ですね!」と持ち上げつつ、内心には熱いものを宿した記者なのだと再認識する。
ラジオは言葉で発しないと伝わらないけれど、こうしたnoteの記事でも文章にしなければ同じであり、その延長線上に小説などの文字表現が位置している。
分かりやすさを追求するなら、映像と音による動画へと行きつく。
8月末になってからVTuberについて学び始め、いくつか動画を視聴するなどして面白さは理解した一方、双方向であるための問題も見えるようになった。
動画の最たるものが映画だろうかと思いつつ、それはそれで面白いし共有のしやすさは抜群だ。
じゃあ今の時代、わざわざ共有しにくい文字表現に固執する理由があるとすれば、「心の眼が鍛えられるから」と答える。
目と耳から得た視覚および聴覚の情報は、この世界をたしかに構成している要素であり、とくに眼を獲得したことで生物の進化は加速したとされる。
では心の眼が何かと言えば、やや狂気じみていることを承知で書くと「見えないものを見る」という能力だろうか。
漢字の「山」を書いたとき、それは記憶によって作られる山であり、人によって故郷のだったり行楽のときだったりと、まったく同じ山にはならない。
地層の隆起によって作られたのか、はたまた火山活動の産物としてなのかでも「山」は異なる姿をしており、ふくまれる姿だけでなく意味も多様だ。
たった1文字の「山」に様々なものを見ることができるのは、個人の記憶および想像力が土台になっており、1つの映像で示されるより変化に富んでいる。
だから面白くて難しく「やま」、「ヤマ」、「yama」としても印象や意味が変わる。
ヘッダー画像にしたポール・セザンヌの絵画も、あえて顔の半分を隠すことで元絵にない意味を与えられる。
そうしたのが楽しくて、私は表現と呼ばれるものをしているのだろう。
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