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「やりたいこと」をじっと見る

久しぶりの投稿です。

社会人になって、もうすぐ5ヶ月が経ちます。運のいいことに、配属先の上司と先輩がとてもやさしい方たちなので、なんとかやれている感じです。


突然ですが、最近、心の調子がきわめてよくなかった、4年前のことをよく思い出します。強迫性障害と不眠症の症状がピークだった頃です。日々、もがいても抜け出せない、重たい沼の中にいるような感覚で過ごしていました。

自分で言うと少し説得力に欠けることを言いますが、ほんとに、よくここまで回復したなと思います。寝れるようになったこと。落ち着いて喋れるようになったこと。今当たり前になりかけているいろいろなものが、あの頃は自分の手からこぼれ落ちていました。

もちろん、また調子を崩すこともあるかもしれませんが、いったん2年程度は調子が落ち着いていることを思うと、何かに手を合わせて、深く感謝をしたくなります。

感謝すべきは、やはり家族や友人でしょうか。

不調で判断力が鈍っていたとはいえ、その時期には、人を目の前で愚弄したり、今思い返しても恥ずかしいと感じる振る舞いをしたりしました。そんな「ヤバいやつ」の時期を経ている分、今でも「普通に」接してくれる家族や友人が居るというのは、本当にありがたいことだと思っています。

彼らのおかげで、僕は一人ではなく、正気のまま生きてゆける。そんなことを実感する日々です。

また、家族や友人の他にも、感謝している人がいます。それは自分です。

3年ほど前から、自分のことを一番大事に考えるようにしてきました。言葉にするとあたりまえなことなのですが、当時の僕は、確かにそれができていなかったのです。

当時は、人に無理に合わせたり、自分を過度に責めたりすることがままありました。しかしそれ以降は、どのような状況でも、自分は自分の味方であることを心がけました。

その姿勢が、他人への攻撃や、今振り返ると恥ずべき言動につながることもあったため、必ずしもベストな姿勢だったとは言いきれません。しかし、自分を大事にし続けたことで、少なからず心身を回復させることができたのはおそらく事実です。その意味で、僕はこれまでの自分にも感謝しています。



話は少し変わりますが・・・
ここ数年、SNSや会社で「やりたいこと」に関する話を目にすることが多かったように感じます。「やりたいことを見つけよう/仕事にしよう」などはその代表的なものでしょうか。

個人的には、幸せの形は当然人それぞれなので、やりたいことがない幸せな人生も普通に存在すると思うのですが、一方で、いざそうした話題を目にすると「自分のやりたいことって何なんだろうな」とまじめに考え出すこともしばしばでした。

最近は、そうした話題を目にしなくても時折考えているような気がします。そして、僕はこのやりたいことについて何度考えても、「心の不調を持つ人の回復を支援したい」というところに行き着くのです。

不調の底にいた頃、もう人生詰んだのかなとよく考えていました。当時は人に頼るのが下手で、かつ実際に頼れる人もほとんどいなかったため、孤独と心身の不調で日々つらかったことを覚えています。

そこから一応の回復をして思うのは、昔の自分と同様、心の不調に苦しんでいる人に対して、何かできることをしたいということです。自分の健康を維持できる範囲で、何かしたい。そういう思いがあります。


ただ一方で、立派な感じで書いてはいますが、この「心の不調を持つ人の回復を支援したい」という思いの中にあるのはクリーンな感情ばかりではありません。むしろその半分くらいは、「心が不調だった頃の経験を意味あるものにしたい」という利己的な感情が占めている気がします。

不調だった時期を経たから、似た境遇の他者をサポートしたいと考えるようになった。そうした美談的な何かを自分の中に見出すことで、過去のただつらいだけだった時間に「立派な思いを抱くようになったきっかけ」という意味を与えようとしているところが多分にあるのではないかということです。

この辺はなんだかまだ釈然としないし、自分の不純さを自覚したまま上述した「やりたいこと」をやろうとしていいのだろうかとも思います。

ただ、人生どうせ働くなら、誰に価値を提供するのかはやはり選びたいなと思い、今のところはそのやりたいことのやれそうなメンタルヘルスの業界に足を踏み入れようとしている次第です。

まあ、自分の本心に注意を向けながら、けれど気楽に、これからもぼちぼち邁進していこうと思います。もちろん健康第一で。


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