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悲観してしまう時に思い出したいこと

結局はこうなっていたと思ってみる

効果的な方法の1つは、結局こうなっていたんじゃないか、と思うこと。
結構おすすめ。なんなら、わたしもいま絶賛、実践している。
だって、もう一回やり直せるとして、何を変えたいか?と聞かれても、やっぱり同じ結末になっていることが大半に思うから。

これは別に悲しいことが起きても悲しむな、という話ではない。
ただ、寂しさや喪失感に耐えきれなくて胸が締めつけられるとき、思い出したい。結局はこうなっていたんじゃないかな、と。
悲観と絶望はきちんと区別したいと思っている。

さらに、薄々気づいている本音を見つめてみる。
いつかはこうなることを知っていたかもしれないこと。

すると、この出来事に意味付けをしたくなる。
※言語化するということは意味づけをするということだと思う。

今のわたしに必要なことだから起きたんだ。
自分に何かを伝えるために起きているんだ。
もっと言えば、いつかの私が心のどこかで望んでいたことだから起きたんだ。
そんな気づきが生まれるかもしれない。

だから、悲しむことも苦しむこともない。
もういつかの夢を叶えてしまっただけなんだ。
いつかの自分がなりたかった自分に、今はもう成れてしまったんだ。

慣れてしまった。今の私を背負えるようになった。
ただそれだけのことが嬉しくて、やっぱり少し寂しい。
そしてそれでも、まだまだ実現できていない理想の自分がある。
次の目指したい夢がある。

優しい人に出逢った

次はどこに行きたいかをゆっくりと考えよう。
自分の心の声を静かに聴こう。

すると、「優しい人に出逢ったんだね」と聴こえる。

月曜日の朝。
noteとyoutubeとコーヒーの前に私がいる。いつもの朝。
いつもと違うのは少しセンチメンタルなこと。

RADWIMPSの『夢見月に何想ふ』が流れてきて、高精度なアルゴリズムに感謝する。開発した人類すごいぞ。あれ、涙出てきた。

また会いたいと思える人がいるというのは、共有している現実や住む世界が違えば違うほど、孤独で苦しいこともあるけど、やっぱり幸せなことなんだと思う。一度でも会えたことが幸せ。

私の中には本当はそういう優しさがあることを知っている。
そして、この感覚自体は誰の心にも備わっている気がする。
他人と自分の境界線がない、『君の名は』のような世界。

悲観したくなるのは、もしかしたら想像を絶する出来事だっただけかもしれない。
怖いくらいに優しくしてもらえて、実は嬉しすぎただけかもしれない。

嬉しすぎて、涙が出るなんて、自分でもよくわからないから、悲観してみたい。
本当の悲観はきっとすぐに絶望に変わっているはずじゃないかな。

今のわたしに絶望はない。むしろ、こう思う。
私のエネルギーは私のもの、そしてあの人のエネルギーはあの人のもの
お互い自分らしく生きようね。

センチメンタルな意味不明のわたし。
悲観と絶望は似ていて非なるものだと気付いたみたい。
もしその上で悲観したいのなら、感謝したいことを見つけよう。
優しくしてもらえたこと、嬉しかったことを思い出そう。

さて、何回か雨が降って、そろそろ紫陽花の季節も終わりに近づいている。
次の季節を見る頃、私も今とはまた違うわたしでいたいなと思う。

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