お米屋さん
薄暗い店内。隣からひっそりと聞こえる話し声。
互いが互いの座席から、顔が見えないようにカーテンがかけられている。立った穂波の腰の辺りまであるカーテンは、座っている人たちの顔を上手に隠す。
そこから漏れる声。甘く、暗く、空気を含んだ、ヒソヒソ声。
周りを囲んだ、卵型のソファ。男女2人で座り、何かを話すための場所。
流れている音楽は、アンビエント。定期的に響く、美しい音色。階段を昇り降りするピアノ。ぼんやりとオレンジ色をした店内はどこか海外の洋館のような雰囲気を醸す。穂波には海外の記憶は無くとも、美しい情景くらいを思い浮かべる余裕はあった。
目の前の机には灰皿。しかし今の穂波には煙草を嗜む趣味は無かった。そして穂波と同席の男も同様に、今は煙草には興味がなかった。
「で、様子は?」と、周りにも負けない密やかな声で隣の男が穂波に声をかける。
「うーん、顔見えないからなぁ」
負けじと密やかな声。
「あ?聴こえねぇ……なんだって?」
「顔見えないから分かんないって言ったの」
「ちっ」
舌打ちをして背もたれに寄りかかる男。その反動で穂波の身体が少し浮く。
「稲村、暴れないで」
稲村と呼ばれた男は、今しがた揺らした卵型のソファの持続する揺れに気持ち悪さを感じつつ、穂波の目を見た。力強く制する目を。
「へいへい……あ、ちょっくらションベンしてくらぁ」
「御手洗いに行ってきますでしょ、仮にも上司に向かって」
「『仮』だからだろ」
ふふん、と鼻を鳴らし細長い身体を器用に折り曲げて天井の低い卵から出ていく。甘い香りが穂波の鼻をくすぐる。
『東町のお米屋さん』
エントリーNo.1、穂波。苗字は無い。身長は148cm、黒髪姫カットと赤い眼がトレードマークの、吊り目の少女。黒髪姫カットはウィッグで、本当はショート。赤い眼はカラコン。本当の身長は146cm。
訳あって、ウィッグをし、カラコンをつけ、2cm身長をサバ読んでいるわけではない。そこに理由は無い。
「理想の女の子像を追い求めたら、こうなったの」と彼女は語る。
エントリーNo.2、稲村新太。身長は189cm、刈り上げた黒髪短髪と、黒い瞳がトレードマークの、吊り目の青年。穂波と異なり、何一つ隠していることはない。
「分けられるなら15cmくらいくれてやりたい」と彼は語る。
2人は、その名前から『お米屋さん』と呼ばれる。『穂』波と、『稲』村新太。そう呼んでいるのは、彼女らの上司だけだが。
甘い香りに身を委ね、穂波はソファに沈み込む。音がやけに輪郭を持っている。ソファに深く沈むと視線が下がり、視界における机とカーテンの隙間が狭くなった。その隙間を凝視する。気を抜くと見つめ続けてしまうのではないかと、意識の偏りを感じた。噂の真相を突き止めにきた穂波にとっては、今のところ良いスタートだと言える。
「おい、キマりすぎてんじゃねぇぞ」
気付いたら御手洗いから、稲村が戻ってきていた。穂波は緩んだ頬を引き締め、背筋を伸ばして座り直す。
「失礼しちゃう」
「うんこだったら大変だったろ」
「やめて、汚い」
そう言いながら穂波は気付く。男の排泄に詳しくはないが、おそらく1,2分しか掛からないはずのところ、稲村が居なかった時間は体感として10分近く経っていた。
「たぶん、この店本物焚いてる」
「そんなんお前見りゃ分かるだろ」
「『お前』っていうのやめて」
「で、国産?それともソトのやつ?」
「多分、ソト」
横で鼻をクンクンとさせ、周りの匂いを嗅いでいる稲村が、口を開く。
「残念無念ってやつだ。で、通報は?」
「私が、するけど、今じゃない。まだ、花澤が、確認、できてない」
「もういねぇんじゃねぇの?」
「その、可能性は、十二分にある」
話しながら穂波はソファに身を委ねる。稲村との会話も、途切れ途切れで、そのまま幸せそうな笑顔で、卵型のドームの内側を眺める。
アンビエントな響きは続いており、相変わらずピアノが階段を昇り降りしている。跳ねたと思いきや、そのまま居なくなる。飛び去っている、より、跳ねたという感覚を穂波の耳は捉えた。耳が捉え、脳が創り出すその景色は、知らない世界となって、瞼の裏に映し出される。
「確かにソトのモンなんかしばらく味わえねぇしな」
ソトの物だと分かってしまえば、あとはいつ通報するか、だけである。
稲村は胸ポケットから煙草を一本取り出し、穂波の半開きの唇に差し込む。
「あいがと」
虚な瞳でドームの内側を眺めている穂波は器用に唇で挟み、両手はお腹の上に組んで置いた。稲村の手がマッチを擦る。
ポワリと灯るその火は、穂波の口元を照らし、次に稲村の口元を照らした。
部屋全体を包む香りに負けないほど、強烈な甘美が卵を満たす。
「おめーは鼻が良いからありがてぇわ。他のやつだと禁煙期間長くて長くて」
「あーぃ」
聞こえているのか聞こえていないのか、穂波は曖昧な返事をするが、稲村には届いていた。
穂波はこのリラックスタイムに陥ると、両手すら動かさなくなる。組んだ両手は固く握られ、灰の落ちる煙草は、稲村が頃合いを見て唇から引き離し、灰皿に灰を捨て、またしても唇に戻す。
「ほんっと、気持ち良さそうにキマるよな」
「らっへ、きもひいーはら」
通報前のひととき。『お米屋さん』の甘美な時間。
アンビエントなピアノは、まだ階段を昇り降りしている。
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