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「ウルトラマンが象った戦後日本」 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』

※この文章は2022年5月15日くらいに執筆しました。

5/13に『シン・ウルトラマン』が公開になった。庵野&樋口のタッグは『シン・ゴジラ』で「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」のキャッチコピーのもと、首都東京にゴジラを出現させ、ありうべき政治的シュミレーションを行ってみせたが、今作では何を見せてくれるのだろうか。今回も政治的シュミレーション?いやいや今回は「空想と浪漫、そして、友情」というキャッチコピーと公開されている予告編から推理するに、もっとSF的な空想やウルトラマンと人間との間の友情関係に焦点が当てられるのだろうか?この問いに答えるためには、『ゴジラ』という作品と『ウルトラマン』という作品の性格や来歴の相違や、そもそもの『ウルトラマン』という一連の作品群の日本の文化史における立ち位置を把握しなくてはならない。そのためには、この一冊ほど適任な本はないだろう。ぜひ今回の公開に合わせてたくさん売れてほしい。


まず、本書が書き始められるにあたって掲げられたのは、次のような問いだった。すなわち「ウルトラマンシリーズが戦後サブカルチャー史のなかで、ひいては戦後日本社会の作り出してきた精神や美学のなかで、いったいどういう位置を占めるのか」。筆者の福嶋さんはこの問いの探求をまずは特撮と日本の歴史を接続するところから始め、批評対象であるウルトラシリーズ自体の変遷を概観しその中にある「二つの大きな断層」を明らかにする。次いで、さらに大きな断層としてウルトラシリーズがそれ以前の1950~60年代の日本の地理的想像力(大東亜共栄圏の記憶の反復)から切断されていることを指摘し、ウルトラマンの生みの親にして特撮の父、円谷英二の軌跡を追いながら「特撮」を戦前・戦後の文化史の中に位置付けていく(ちなみに「特撮」は特殊撮影技術 Special Effects :SFXの略語である。すなわち、ここでは技術用語がジャンル名になるという現象が起こっている)。


またこの第三章では、円谷の飛行機憧憬が宮崎駿と関係づけられるだけでなく「永遠のモダニスト」とも呼ばれる小説家、稲垣足穂の飛行機嗜好とも関連づけられ、さらにその飛行機の美学が『バレエ・メカニック』や『狂った一頁』などの当時の前衛映画とも、さらには同世代の川端康成や横光利一ら新感覚派の感性とも共振することが示され、当時の文化の基層にあった「主体なきメカニズムの美学」の存在が明らかになる。1900年付近生まれの世代を、活躍した分野にかかわらず「技術を志向した世代」として解釈するという視点は、分野横断的な文化史ならではのもので、非常に面白かった。そして本章の最後には、その「技術を志向した世代」の中でも突出していた円谷が、徹底した技術屋であったために戦前・戦後ともに「非転向」であって、文化史においては戦前・戦後のメッセージ的な不連続性とともにメディア的連続性が存在していたことが指摘される。技術を中心とするとき、戦中と戦後の文化史は連続的なものとして浮かび上がってくるのだ。言われてみると当たり前のような話にも思えるが、これをここまでしっかりと論証してしまったのはすごい。


次に、話は特撮を中心としたとき日本のサブカルチャー史が三世代の「共作」のように見えてくる現象に触れ(1900年前後生まれの円谷などの「モダニズムの世代」、1930年代生まれの金城哲夫(『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの初期ウルトラマンシリーズの脚本を担当)らの「少国民世代」、そして1960年代生まれの庵野秀明などの「オタク第一世代」。ちなみにこの観点から見ると今回の『シン・ウルトラマン』は第三世代から第一世代への応答とも見ることができる)、ウルトラマンにおける「風景」と「怪獣」についての言及が展開される。ここで『ゴジラ』に関する考察も同時に展開され、『ゴジラ』の持つ記録映画的側面、その虚構のドキュメンタリー性が指摘される。『シン・ゴジラ』もその虚構のドキュメンタリーの系譜を現代的な道具立てを用いて正しくアップデートしたものだと言えるが、同時に『ゴジラ』が持っていた芹沢博士の孤独を映しとるなどの私的な記録という側面が抜け落ちてもいた。記述はさらに遡って『ゴジラ』前史的な部分を確認して、戦後サブカルチャーの二重人格状況が語られる。これは先に第三章で見たような「飛行機的なモダニズム」とここで『ゴジラ』を中心に確認したような「怪獣的な反モダニズム」が、日本の戦後サブカルチャーには同居していることを意味する(ex:ナウシカのメーヴェと巨神兵など)。


ここまでお膳立てをして「では『ウルトラマン』は?」という問いにいよいよ迫るのだが、『ウルトラマン』がその郊外の風景を積極的に取り上げ、いわば「第三の東京としての郊外」を記録したのと同時に、その風景にしばしば都市システムの「環境」ないし「インフラ」を登場させてきたことが早速指摘される。『ウルトラマン』という作品は戦後産業社会の風景に根ざした作品だったのだ。そこは今回の『シン・ウルトラマン』でどうなるのだろうか?「シン・ウルトラマンの風景」というのは、今回の映画を見る際の一個のポイントになるだろう。


本書もいよいよ後半、読み応えのあった風景論/怪獣論の次は戦争論になり、いかに戦後日本の文化が「戦争」を取り扱ってきたか/こなかったかが語られ、ウルトラマンのデザインにも話が及ぶ。実はウルトラマンのデザインは20世紀前半のイタリアで起こった具象彫刻という運動の影響を多分に受けているという。ウルトラマンのデザイナーは成田亨さんというのだが『シン・ウルトラマン』では成田さんの当初のデザインを尊重し、カラータイマーも背中のヒレもなくなっている。これも第三世代からの第一世代への応答として面白い。またここでは「日本映画が敵を描けない」という問題が大々的に取り上げられると共に、その表象の困難を戦後の特撮やアニメが引き受け、悪戦苦闘してきたということも語られる。これは戦中の国策映画から今のサブカルチャーまでを貫く非常に大きな問題である。ここではウルトラマンが抱えた「イデオロギー的混乱(地球を守るという大義名分の右翼性と作家個人たちの左翼性の衝突)」もまた指摘された。


最後に本書は日本のオタクの先駆的存在として位置付けられる大伴昌司と佐々木守に言及し、そこから「オルタナティブなオタク像」の提出(「子供を育てる子供」としてのオタク、言い換えれば、世代を超えたメディア上の教育者としてのオタク)をし、21世紀にスマホの普及によって特撮技術が民主化した結果、特撮史も美術史も映画史も漫画史もゲーム史も含めた「エフェクト史」の出現を予告して終わる。


ざっと駆け足で説明すると、本書はこういう内容の本だった。恐ろしく明快でかつ素晴らしく濃厚な一冊だった。

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