ちょこっと日記|哲学の地位を上げたい
中学高校時代、ディベート部というマニアックな部活に熱を上げていた。
そのうちの一つの戦法、それは「相手の意見を飲んだとしても、それでもこちらの方がメリットでかいよね」という相手を包括してしまう戦い方。
これには、水掛け論にはならず、まあwinwinならこっちの方法がいいなあ、とジャッジも投票しやすい。どう相手を包括するか、双方が納得する提案ができるか、これは商売や外交などの規模にあててみても通ずる議論だと思う。
ところで私は大学で社会学を勉強している。
社会学は統計学や、実証の面から「社会科学」という、科学的な要素もある。
そう、今の世界は科学の地位が高く、哲学の地位が低いと感じる。
そして私は社会科学を学びながら、哲学の地位はもう少し上がってほしいと思うようになった。
科学とは、真実を突き止める、もしくは新たな技術を創り出す、という性質がある。
でも手にした真実や新技術を前に、それをどう使えば皆が幸せになるのか、考えるのは科学の役目ではないのである。
言ってみれば、武器を手にした勇者がいつまでも最初の町でぶらぶらしてます、みたいな状態、もしくは武器の使い方がわかりませんーってパターン。
武器の使い方がわかってなくて、人を殺めたり暴力的な権力者に変貌する歴史もよく聞くだろう。
哲学とは、その武器の使い方を教えてくれるものなのである。
哲学という文字を見ただけで難しそう、意味のない物をひたすら考えている、などというイメージを持つ人が多いだろう。まあ歴史のいろんな哲学者の歴史を見ると、確かに難しい部分もあるが、
哲学の本質は、人間みんなに当てはまるような普遍的な真実はあるのか、もしくはどう生きるのがみんな誰でも幸せになれるような普遍的な方法なのか、を考えているのである。
みんなに当てはまる、普遍的な方法というのは冒頭のディベートの包括論と同じだ。武器の使い方がわかれば、最初の町から出発できる。
最新技術を手にした人間がすごいのではなく、それをうまく使うか人間がすごいのである。皆が幸せになれるかはわからなくとも、少なくとも+になるような、それか-になる人がいない、そんな使い方が広まってほしい。その思いで、哲学の地位が上がればいい、とひそかに思っている次第。
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