よく遊んでくれる「友達」だった父


こんにちは、未織です。

今日は、妹が生まれる前、私がひとりっこだった頃の父の話です。


よく遊んでくれる、楽しい「友達」

子どもの頃の父を思い返すと、仕事から帰った後も休日も、

とにかくよく遊んでくれた父でした。



毎晩帰ってきた父に「うまやって~~~」と抱きつき、

寝室で「おうまさんごっこ」をやってもらっていました。


よつんばいになった父の背中に乗っかって抱きつき、

父がその状態で歩き回ったり横にかたむいたり上体を起こしたりして、

私はきゃーきゃーさわぎながら、落ちないように必死でしがみつく。

スリリングで楽しくて、父に抱きつけるのもうれしくて、

しょっちゅうねだってやってもらっていたなあ、、



長期休みにはいつも家族旅行に行きました。

父と母が代わりばんこに車を運転して、

海、山、川、アスレチック、工房、、、

数えきれないほどいろいろな体験をさせてもらいました。


そのときに見たひとつひとつの景色、

ひとつひとつの経験や、興奮、感動、

そこから芽生えた好奇心


それらが私の人生を彩っていたことはたしかです。





優しい父としての姿


父の、「お父さんらしい」姿

優しい顔や声



それを最初に思い出せるのは、

私がおなかが痛くなったとき、いつもあたたかい腕で包み込んで、

「パワー」を送ってくれたこと。


「痛くなくなるまほうが使えるんだよ」とささやいて、

優しく背中をなでながら「今パワー送ってるからね~」と。


「痛いね、しんどいね」


おなかが痛いときだけは、母よりも誰よりも共感してくれて、

そばにいて安心させてくれた。



発達障害や自己愛性パーソナリティ障害をもち、

共感能力が著しく乏しい父。



その父が、この場面だけ心からあたたかい、

思いやりに満ちた行動ができたのは、


あとから考えてわかったことですが、

父自身むかしからストレスが胃腸に出る体質で、

働きすぎて胃に穴が開いたこともあるくらいで、


だから、唯一父が実体験をもとに共感できることだったのかもしれません。


相手がどうしてほしいのか、何に苦しんでいるのか

その痛みがどんなものなのか、どれくらい痛いのか



父には、自分自身の切実な経験がなければ、

人に共感し、求められていることを優しさをもって与えるような

余裕をもつことは、

難しかったのでしょう。



自分がインフルエンザで妻から献身的な看病を受けたあと

感染し寝込んだ妻に対して、

大音量でテレビを流しっぱなしにしながら

ぬるいポカリを枕元に雑に置くことしか思い浮かばなかった父。



センター試験一週間前に私にインフルエンザを移し、

私が夜中に高熱でひきつけを起こしたとき、

必死に私の体を押さえつけるばかりで

最後まで救急車を呼んでくれなかった父。


その父が、唯一共感し、ともに心を痛め、

いたわることができたもの。


それが私の腹痛だったということです。








そしてもうひとつ。


父が、父親らしく頼もしい父であったのは、

私に「きもち きりかえる~~ ぽんっ」をしてくれるときでした。



私は小さいころ、よく拗ねる子でした。


自分の要望が通らなかったとき

からかわれていると感じたとき

思い通りにいかないとき

しかられたとき


よく、ぶーーと唇をつきだして下をむき、

だんまりして周りの人に気を遣わせようとしていました。


そんなとき決まって父が、「おいで」と言って私を膝に座らせ、

ぎゅーーっとしてから、


「きもち きりかえる~~  ぽんっ

 きもち きりかえる~~  ぽんっ

 きもち きりかえる~~  ぽんぽんぽんっ」


と、私の背中をぽんっとしてくれて、

私はそれをきっかけにいつも、涙を拭いて、

曲がったへそをもどして、

立ち上がることができました。




これも、考えてみると、

気持ちが落ちてしまって自分からは次に進めない感覚を、

父自身が知っていたからなのかもしれません。


父も、自身の特性から、自分から腰を上げて行動すること、

気持ちを立て直していくことの難しさを日々実感していたと思います。


だから、同じ特性を持て余し困っている私に、

手を差し伸べようとしたのかなと。



私が小さい頃は、それができたのだと思います。

純粋に私の成長を願って。


小学校高学年ごろから、

このように父が頼もしく私を導いてくれた記憶が、

残念ながら浮かんでこないのです。


「きもち きりかえる~~ ぽんっ」

のように幼い子向けのやり方はもう通用せず、

言葉で理性的に諭さなくてはならなくなったとき、

私を成長させるための言葉を伝えてくれることはありませんでした。


その言葉は、同じ特性をもつ同類の人間に対して、

「わかるよ、大変だよね、どうしたらいいんだろうねー」

でとどまってしまう、

傷の舐めあいのようななまぬるい言葉でした。



精神年齢が幼い「子ども」だった


ふりかえってみると、

父は精神的に幼く、子どもだったのだと思います。


私の精神年齢が、父より幼いか同じくらいのころには、

父の言葉、行動は素直に私に響き、

父との遊びも私を楽しませました。


しかし、いつしか私の精神年齢は、父を追い抜かしてしまった。


父の一辺通りで幼い慰めは効かなくなり、

遊びはつまらなくなりました。


私はだんだん、父と母の口喧嘩のときなど、

理論的で理性的な言葉をはさんで母の側にまわることが増えました。

母の方が正しい、とはっきりわかってしまうようになったのです。


そこから父は焦ったのだと思います。

自分の味方を失ってしまう、

自分より判断能力の弱い、幼い人間がいなくなってしまう。


それは父的家庭内勢力上で、圧倒的不利になるだろうという、

強い不安感だったのでしょう。


父は私を味方につけるため、

私の判断力をにぶらせ、

自分の幼さを私にも受け入れさせようとするようになります。


私を言いくるめて一緒に母を責めさせたりすることもありました。


そしてこの父との関係が、

その後の私の人間性を大きく歪ませることになるのです。






続きはまたこんど。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。




未織





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