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海外の貧困問題に関わりたい理由

 いつもはイヤホンで大好きな音楽を聴きながら自転車を漕いでるけれど、たまにイヤホンを外してぼーっと考え事をするときもある。今日がそうだった。
 バイトまでの時間潰しに、運動がてら川沿いをサイクリングしてきた帰りだ。イヤホンを外すと途端に耳が涼しくなるから、その心地よさにしばらく浸っていたら、突然昔の光景が脳裏に浮かんだ。
たぶん涼しさを感じてたからなんだろう、真冬の寒い玄関前に座り込んでいる小学生の頃の自分がいた。
小学校中学年くらいから高校生の途中―正確には高1の冬―までは、週に何回かくらいの頻度で親に怒られては部屋着と裸足のまま外に放り出され、何時間も締め出されていた。夕飯や朝ごはんを抜かれたりすることもあった。
今でも鮮明に思い出せる。夏でも夜は冷え込むし、家がマンションのエレベーターの真正面だったから、通りかかるすべての人にじろじろと見られた。優しい人は声をかけてくれたりしたけど、僕にとってはそれで親がまた怒るかと思うと放っといて欲しかった。冬なんかは言うまでもなく、凍えて生きた心地がしない。コートを羽織っていても、何時間もそんな空間でじっとしていたらあまり意味がない。手ぶらでお金も持っていないし行く宛もない。公園に行って走ったりして体を温めたりすると、中に入れてもらえるタイミングを逃すかもしれないから下手に玄関前から動けない。なんでこんな思いをしきゃいけないんだ、とかそんな言葉じゃ表せない苦痛だった。
ごはんを抜かれることも、体が成長して自分で食事を抜くのとは違って、お腹が空いているうえで食べさせてもらえない辛さは、相当なものだった。翌朝は熱が出たように体が熱くて、力が入らない。空腹の辛さを知った。
でも、極論を言ってしまえば親を怒らせる自分が悪い。たとえ他の家庭よりも仕打ちがひどかったとしても、怒られなければ済む話ではある。これについては、また別の時に書こうと思う。
僕の場合は何かしら自分のなかに原因がある。罪があり、その代償として罰がある。

しかし、アフリカの子供たちはどうだろうか。

アフリカだけではない。世界の様々な地域で、なんの罪もない、無邪気な子供たち (innocentという言葉がしっくりくる)が、貧しい地域に生まれ落ちてしまったがために一生貧困から抜け出せず、その子孫も貧困のループを辿る定めになっている。

僕は一食、多くて三食くらいまでしか抜かれたことがないけれど、それでも十分空腹の辛さを味わった。貧困地域の子どもたちは毎日が、ご飯にありつけるかありつけないかという極限状態ということもある。程度は色々あるだろうけど、子供たちが辛い思いをしているんだろうと思うと、ほんの少しでも痛みがわかる身としては、力になりたいと思った。
これが、将来貧困問題の解決に携わりたいと思ったきっかけの一つ。
なぜ日本ではなくアフリカかというと、たまたま僕が海外に興味があるからであって、日本の貧困がどうでもいいというわけではない。だれかがやらなければいけない。今僕はアフリカで活動したいと思っているだけで、何人がどこで仕事をしたいと思うかは、他人が決めることじゃないと思う。

この話を読んで、何かしら心に残ったものがあれば幸いです。

最後に、だれかが辛い思いをしたとき、その話を聞いてあげた人が「自分は君ほど辛くはないけど、似たような経験をしたよ」ということがあるけど、人の「辛さ」や「大変さ」、そういうものは人と比べるものじゃなくて、それぞれ個人にとってただ痛みとしてあるだけだということを知ってほしいです。
程度は関係ない。痛みを味わった人は、他人の痛みを理解しやすいんだと思います。似たような経験がない人が気を遣って自分はそんな経験したことないから、、、っていう感じの反応をするのも、気遣いとわかっていてもなんか違うかなと思います。ただ話を聞くだけで相手は楽になるかもしれないし、同情が想像以上に本人への助けになったりもします。ただ味方でいてあげてほしいなと思います。

なんか最後全く違う方向の話になってしまったけど笑
ここまで読んでくれてありがとう。

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