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キャラクターを介する歌詞内容の聴こえ方―プロジェクトセカイ〈25時、ナイトコードで。〉が歌う楽曲をめぐって―

※本記事はプロセカ未プレイの方でも十分に読める内容になっていますが朝比奈まふゆに関するネタバレが若干含まれています

ボーカロイドを利用した楽曲には、生きにくさの吐露が比較的素直にされている楽曲が少なくない。
特定の人物に歌われない機械の声は、歌詞内容を聴き手自身に当てはめて聴きやすいのだろう。いわゆる病み曲と呼ばれる楽曲は多く、今ではそこで行われる痛々しいまでの感情の吐露はボカロシーンの特徴のひとつでもある。

初音ミクをフィーチャリングしたリズムゲーム、「プロジェクトセカイ カラフルステージ!feat.初音ミク」(以下プロセカ)はそのような鬱々とした歌詞や曲調の楽曲も扱っている。ゲーム内で主にそういった楽曲を歌唱するのは4人組音楽サークル「25時、ナイトコードで。」。メンバーの4人はそれぞれが重い葛藤を抱えており、ストーリー中には何度も〈消えたい〉というキーワードが登場する。「病み曲」の歌詞がそのまま反映できそうなキャラクターの集まりだ。

音楽を聴く際、歌詞や曲調が表現する感情のようなものをそのまま感じることができる聴き手は、意図が達成されたという意味で良い聴き手だろう。「病み曲」を聴いて気分が少し落ちるのも、楽曲に没入できるという意味ではよい反応かもしれない。反対に、すでに気分が落ちているときに「病み曲」を聴き、歌詞を自分と重ね合わせて励まされることもあるかもしれない。ボカロシーンに多い「病み曲」は、主に後者の役割を果たしてきた。

しかし、「病み曲」の存在にキャラクターが介入することで、聴かれ方は変わってくる。プロセカ開発者インタビューで「今回のプロジェクトは、若い世代の人たちにボーカロイドやインターネット発の音楽をもっと聴いてもらいたい、というところから始まっている」と語られている。「病み曲」がそれが担う重量感を変えないまま、キャラクターを介すことで聴きやすくなっているのだ。

現実と虚構の狭間で

実在する人物が歌う楽曲である場合、それがフィクションであると知っていても歌詞内容と歌唱する人物の心情がどれほど関連性があるのか考える余地がある。歌唱している人間に歌詞内容がどのような影響を与えているのか、歌詞と人物にどのような関連があるのか。
一方で初音ミクなど、生活史がないキャラクターの場合は、歌唱する人物に歌詞内容が依存することがない。音と言葉以外の情報がなく、歌唱者の意思や感情が不必要に乗ることがなく聴くことができる。

プロセカに登場するキャラクターは、ストーリーを通じてその生活の様子が開示される。ゲーム内で「バーチャルアイドル」と呼ばれる初音ミクや巡音ルカとの違いはここにある。どちらも架空のキャラクターであることは間違いないのだが、ゲーム内の現実世界に生きる、バーチャルアイドル以外のキャラクターには生活があり、悩みがあり、志がある。実際は描かれることであらわれるキャラクターにすぎないが、ゲーム内では架空の十数年の積み重ねののちに存在する17、18歳であり、家族もあるのだ。
ゲーム内での存在の仕方としては、我々が現実を生きている存在の仕方と非常に似ている。片や虚構の存在という意味ではバーチャルアイドルとほとんど同じだ。プロセカのキャラクターたちは実際の人間と初音ミクらバーチャルアイドルの中間のような位置づけにいると言える。

キャラクターらは当然、ゲームのシナリオから逸脱するようには動かない。人間と似ている仕方で存在するようには描かれているが、実際には能動的に思考することもなければ、行動することもない。それを知っているプレイヤーは、「病み曲」を歌っている顔色の悪い朝比奈まふゆを見て、「今にも倒れそうで心配だ。休んだ方がいいのではないか」と思うことはないし、思う必要もない。

また、初音ミクと同じ虚構の存在でありながら生活も描かれるキャラクターは、歌唱することで楽曲にさらなる意味を付与することになる。初音ミクが歌う『自傷無色』は歌唱者がたんなる媒介のはたらきしか持たないため、ひどく悩み落ち込んだ人間の共感を呼び、寄り添うかもしれない。しかし、ゲーム内で朝比奈まふゆと宵崎奏が歌う『自傷無色』は、聴き手の共感を呼ぶより先に二人が〈誰も僕を望まない そんな世界だったらいいのにな〉と思っていることの現れとして機能する。ゲーム内の設定に歌詞が回収されるのだ。

病んでいても歌うし踊る

キャラクターに命を吹き込む声優の声も「聴きやすさ」に多大な影響を与える。機械の声より人間の声が、といった話ではない。

声優が行っていることは、声を入れてキャラクターを喋らせることだけではない。キャラクターに生命感を感じさせるために普段我々が喋るよりも大きな抑揚や表情を加える。これは、「病み曲」を歌うに相応しい性格の「25時、ナイトコードで。」のメンバーにももちろん当てはまる。もの静かなキャラクターでも、喋りの細かい部分で声には抑揚がつく。絵についても同様で、少しの目の動きや体の動きで感情が表される。相対的に見て、朝比奈まふゆは表情が少なく病んでいそうだが、その動作や態度は当然、実在する病んでいる人間らしくはないという意味で写実的でない。歌唱後に焦点の合わない目で「なんの意味もなかったね」とつぶやく朝比奈でも、ちゃんと歌うし踊る。静かな声だが平坦ではない歌唱は、朝比奈の設定とキャラクターコンテンツとしての質を両立させている。

楽曲を介するキャラクターの伝達

これらを踏まえると、プロセカにおける歌唱は、歌詞の意味内容の伝達が目指されていないことがわかる。プロセカではボカロ曲が5つのカテゴリに分けられ、それぞれのカテゴリの楽曲を5つのゲーム内ユニットのうちのどれかが歌唱するという方式をとっている。つまり、ある楽曲をあるユニットが歌うということは、その楽曲の曲調や歌詞を通してユニットが自己紹介しているともとらえることができるのだ。

「25時、ナイトコードで。」は『悔やむと書いてミライ』で〈死にたい 消えたい これ以上ない こんな命に期待はしないさ〉と歌う。これは歌詞や楽曲の伝達を目的としているのではなく、ユニットの方向性の提示、キャラクターの心情の説明を目的としているのだろう。
音楽を聞きながらタップをするというゲームの特性からしても、楽曲をじっくりと聴くことは目的ではない。楽曲を通してなんらかのメッセージを与えることが目的とはされていないのだ。なにかこちらに訴えかけるものがあるとすれば、それはストーリーを見てこちらが感情移入することによるものだろう。
「病み曲」はこうして、キャラクターを通した上で聴かせる構造になっているのだ。

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