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アニメ版『映像研には手を出すな!』が原作に負けず劣らず面白い

今年1月からアニメが放映されている『映像研には手を出すな!』。一言では表しがたいアニメ版映像研の面白さについて、いくつかの側面から分析を試みよう。

描写・設定における3つの要素

映像研の面白さ、あるいは珍しさの理由のひとつに舞台設定がある。異色な設定があるにも関わらずリアリティを感じる映像研だが、そこには作品の世界観を構築する3つの点が絡んでいる。

第一に、アニメ版では水彩タッチで描かれる浅草の妄想だ。浅草は水崎や金森を巻き込みながら妄想の世界を展開していき、アニメの設定を次々と生み出していく。色彩の付け方やSEにより、視聴者は浅草の妄想か否かを区別することができるが、浅草の妄想前後にそれを彷彿とさせるような描写は挿入されないことが多い。妄想の世界にいる浅草を金森が手を叩いて引き戻す、妄想のシーンで浅草が水没した道路に落ちると現実の浅草も水中に落ちているなど、浅草の妄想は行動と伴っており、現実と妄想の境界は非常に曖昧に描かれる。

第二に、時代設定だ。映像研は2050年を舞台に描かれている。現在から数えると30年後にあたる世界だ。未来が舞台となると、日常生活における様々なものが分かりやすく未来風に描かれることがあるが、ここではこまごまとした部分―食道が生徒手帳決済になったり、中高ともに生徒のグローバル化が進んでいるなど―でのみ時代の変化を感じることができる。改札は現代とそう変わらないし、その他紙やパソコン、タブレットが現代とほとんど同じように使用されている。未来であることによる些細な変化は感じるものの、変わらず存在している(と思われるもの)によって、視聴者は―このあとに書くように、設定にフィクション性は強くあるものの―この作品の舞台が現実世界とまったく異なる世界ではないという認識を、無意識であれ持つことができる。舞台は未来であり未来らしさもあるが、その描かれ方は決してSFではないのである。

第三に、芝浜高校の構造である。浅草曰く、公立ダンジョン。作中でも浅草によって説明されているように、芝浜高校は非常に複雑なつくりをしているが、これはこの時代だからではなく(芝浜高校は創立がそこまで浅い学校ではない)、作者によるつくりものである。

現実に存在しえない芝浜高校が違和感なく視聴者に受け入れられるのは、浅草の妄想が曖昧な境界で描かれているから、そして、作中で明確に発言されるわけではないがぼんやりと実感させられる時代の違いがあるからである。浅草の妄想、30年後の設定、フィクション全開の学校。これら3つの点が絡み合うことによって、確固たる世界観が構築されるのである。視聴者が持つ、作品中のとあるものの存在や形に対しての疑問は、説明されなくともこの3つの要素によって解決することができる。そうして結果的に、この設定はアニメ作り、あるいは登場人物のリアルさを浮き彫りにする。

水崎ツバメとモデル業

カリスマ読者モデル、両親は俳優、お金持ち。そして、アニメーター志望・水崎ツバメ。芝浜高校で浅草たちと出会い「カリスマ読者モデルの水崎ツバメがアニメを作れば絶対金になる」という金森の言葉をきっかけに、浅草と共にアニメを作ることになる。さて、映像研における水崎の設定「モデル」の役割はなんだろうか。

水崎の知名度を利用して映像研を宣伝するという金森の目論見通り、水崎の名前は文化祭やSNSでの宣伝に大いに役立てられる。
ここで、水崎は「モデル」という設定を有している人物でこそあるが、作中において一般的な「モデルらしさ」が排除されていることに注目したい。比較的目が大きく、眉は整えられていて髪型もツーブロでおしゃれにしているなど、容姿から特徴を見出すことはできる。だが動作としての「モデルらしさ」はほとんど描かれない。描かれる対象、登場人物として水崎に求められているのは、モデルらしさやかわいさ、格好良さの類いではなく、金森が求めているもの同様「モデルとしての知名度」のみなのである。水崎がモデルの知名度以外にも派手さやかわいさなどを特徴として映像研のひとりとして描かれるなら、水崎は「モデルらしい」振る舞いや姿と共に描写されているべきなのだ。

ところで、水崎が学校内の者あるいは一般人から「あれ水崎ツバメじゃない?」「ツバメちゃんだ!」と遠巻きに言われる描写がある。しかし浅草は当初、金森に言われるまで水崎をモデルだと認識していなかったほか、金森は「モデル」に金の可能性以上のものは感じていなかった。また生徒会や美術部など、映像研と関係を持つことになる者たちも水崎の存在に対して何か言うことはなかった。水崎に対する一般人との反応の差は、(たんに映像研と絡む者たちが変わり者だらけということも大いにあるのだろうが、記号として見るならば)映像研の外部と内部の境界でもある。外から見た水崎はカリスマモデルだが、関係者含む映像研内部から見る水崎は「モデル」という(映像研からすれば有利な)性質を持っている人物にほかならない。

たんなる「アニメ制作の物語」ではない

アニメ版映像研は「アニメを作るアニメ」として評価されることがしばしばある。しかし、映像研を「アニメをつくる作品」としてのみ評価するのは、言わずもがな不十分である。

映像研究同好会は「アニメは作りたいが一人ではできない」浅草みどりと「アニメーションが作りたいけどアニ研には入れない」水崎ツバメの二人を、浅草と中学時からつるむ金森さやかが全員の利害を一致させるかたちで立ち上げたことで始まった。水崎と浅草はその十二分な能力を発揮し、金森は作品の価値をどのようにして人々に知らせ、金にするかを思案する。
映像研が「アニメ作りをする作品」に留まらない理由のひとつは、金森の存在が、アニメは作られるだけでは不十分だということを強調しているからである。観られることが保証されていない高校のアニメ制作において、「観られるためにはどうればよいか」という課題があることにより、そしてそれをプロデューサー気質の金森が強調することによって、この作品が描くものはアニメ制作に関する葛藤や過程のみに留まらないのである。

また、「アニメを作るアニメ」にとどまらない理由は浅草にもある。浅草の得意とするものは設定作りであり、作画の水崎と異なっている。前述したように、アニメでは設定を作るに際して浅草の妄想が曖昧な境界で描かれるが、このことによって浅草たちの存在する世界そのものすらアニメ作りの材料、過程に組み込まれるのである。

アニメ作りに詳しくなくて/ならなくてよい

アニメに詳しくない金森が、アニメ作りの技術面にほとんど関与しないまま映像研に参加しているおかげで、視聴者にアニメ作りやメカニック等の知識は必要なくなる。それは「専門的な知識がない金森に対して水崎や浅草が説明する」からではない。むしろ金森曰く、「求めた以上に解説されるのは苦痛です」で、浅草たちが目を輝かせて説明することに関して、迷惑そうにすることもしばしばだ(とはいえ、金森が映像研の一員として覚えておくべき事柄に関しては自ら聞くし記憶もする)。このように、金森がアニメ作りに関する専門的な説明を聞かないという態度をとることで、詳しくない視聴者がどうにか分かろうとする態度は自ずと崩される。浅草氏、またなんか言ってるよ。そういった視点で受け流す選択肢を視聴者の前に提示しているのだ。浅草、水崎の言っていることが分からないのもまた一興。アニメは説明ではなく、物語である。作中で描かれるアニメーションについて、またそこで描かれるメカやこだわりについて、完全に理解する必要などないのだ。

予算審議委員会で生徒会と対立した際、浅草が「細工は流々、仕上げを御覧じろ!」と涙目で言うシーンがあるが、これは映像研を観る視聴者に対しても同じことが言える。ここまで書いたように、映像研はアニメ作りの過程を描いているが、アニメの完成だけを目指す作品ではない。なのでアニメ作りの細工、あるいは浅草や水崎のこだわりなどの細工は分からなくても、アニメとして面白いのだ。この言葉が発されたシーンは、映像研究同好会の今後がかかっている注目の部分であった。放送は4話、全12話のうち3分の2が残るタイミングである。原作にもあるシーンだが、アニメとして放送されることで視聴者へのメッセージにもなったのではないだろうか。

まとめ

ここまで、映像研のおもしろさについていくつかの側面から雑駁に言及してきた。まず第一に、世界観の構築のされ方。3つの要素が絡み合うことで強いフィクション性の中に現実らしさが見出される。そして、水崎のモデルという設定が一般的なモデル(人気者、美人)として機能しているのではなく、知名度の理由として必要とされており、また知名度の道具としてのみ描かれているということ。さらに、浅草の妄想によって日常すらアニメの題材になることや、金森が有するアニメ作りのその先への視点によって本作品はアニメ作りのみを目的とした作品に留まらないこと。そして最後に、アニメについて詳しくなくてもまったく構わないという体制。
これらが―あくまでも一部にすぎないが―、映像研を面白く、そして珍しくしている要素なのではないだろうか。

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