【小説】陽だまりはそこにいた。#1(全8話)
十九の、まだ生き方を知らない私は、ただぼんやりと「将来、錄(ロク)ちゃんと結婚するんだろう」と思っていた。
結婚して、子供を産んで、母になって、誰かを大切に、大切に慈しむ。そんな人生を錄ちゃんのとなりで歩んでゆくのだと薄らぼんやり思っていた。それが春の話。
十九歳になったばかりの大学2年生の春。
淡く柔らかく、それでいて少し冷たい陽射しと花を散らす激しい風が交互に頭の中を駆け巡る。
脆くて、甘くて、どこまでも澄んでいて。その年のハルの記憶は驚くほど鮮明で、うっとりするほど綺麗だった。
そんな昔話が脳裏を掠めたのは、この妙に落ち着き払った日焼けの青年の独特の味覚が懐かしく思えたからだった。
「目玉焼きにマヨネーズ?」
突っ込まずにいられなくてついに口に出すと、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりのしたり顔で彼が言う。
「日本と違って、こっちの揚げ物みたいな目玉焼きには合うんだよ」
かける? と雄弁な目元で訴えながらマヨネーズの入った小瓶を差し出してくれたけどご遠慮願った。ふぅん、と彼は瓶を引っ込め、それから私の皿を見て
「それはそれでめっちゃうまいよね」
と笑った。
実際ら食べてみたら美味しいのだろうとは思っている。思いつつも、私は塩コショウでいいのだ。
本当は醤油派だけど、スペインの街中の気軽なカフェに醤油を常備してくれと頼む方が傲慢である。
目玉焼きと、信じられないくらい山盛りのサラダと、なんかよくわからないけどすごくおいしいガーリックトーストと、ポタージュ。特別お洒落でも、高級でもないけど、不思議と満たされた気持ちになる素敵なメニュー。
名古屋の人がモーニングに通うのもきっとこういう幸せがあるからだろう。なるほどたしかに、今日を生きていけるような気がする。
向かいに座る彼は最後に取っておいた目玉焼きをにこにこしながら頬張っている。
そのウキウキした視線も、好きなものを無理強いしてこないところも、なんとなく記憶の片隅を刺激してくる。
自分の身体には目には見えない小さな穴がいくつも存在していて、少し冷たい風が吹いてようやくその隙間にきがつくような、些細な、でも無視できない感覚。
その姿を思い出してしまったら、私はきっと息ができなくなってしまうから。
だから、細部がありありと目に浮かんでしまうその前に、少しだけ、遠くのことを思い出してみる。
その人に出会った頃の、まだ生き方を知らない幼い私のことを。
***
錄ちゃんは出会った時からずっと変わらず柔らかい人だった。
人の棘をふんわり包んで、全然痛くないよ? と抱きしめてくれる。それが錄ちゃんという男。
彼のその天性の特質は周りからの愛され方にとてもよく表れていたしら近くで見ていた限り、錄ちゃん自身が無理をしているという風では全くなかった。考えすぎて自分を責めたり守ったり忙しい性分の私は、そんな素敵な人間が存在してしまっていいのかと何度も首を傾げたものだ。
初めて会った夜も、彼は友人たちから「ロク」「ロク」と名前を呼ばれ、ちょっと照れながら輪に馴染んでいた。
よく知らないサークルと、これまたよく知らないサークルと、飲み会好きの天文サークルと、私を適当に勧誘した写真部がごったになった新入生歓迎会のような場だった。
なぜ、複数のサークルが広くもない居酒屋にあんなに集結していたのか。当時は歓迎される側だった私に知る由もない。とにかくいたのだ。その中に彼もいた。
わかりやすくイケメンではないけれど、好感の持てる笑顔。背は低くないのに、腰は低いあの絶妙な雰囲気は人が溢れる店内でも視界の端に映り込んでいた。
私はというと未成年だからお酒は飲めないし、そもそも誰がなんの繋がりでここにいるのかもわからない。少なくとも諸先輩方から歓迎されている感じがしない。
なんで我々はここに座っているのか。そういう、飲み会で魂の抜けてしまった一年生が、することなんて、美味しそうなデザートメニューを端から頼んでいくことくらいしかない。
じゃあ次はゴマ団子で〜、なんてちょっと仲良くなった同期とオーダーしていたら、隣のテーブルにいた彼がぴくりと反応した。
「ゴマ団子頼んでんの? 俺も食べたい。もういっこ追加で」
「あ、頼んどきますね」
とにこやかに応えたのが初めての会話だった。
そこからはこれといって記憶に留めるようなこともなく、錄ちゃんと私を含めその場にいた数人で会話が盛り上がった。先輩後輩が入り混じった「その日最も会話が弾んだ瞬間」が一応は訪れたのだ。
まあ、あいにく天文サークルと写真部の人間しかその場におらず、残念ながら他の団体は依然として知らん奴らと知らん奴らのままであったのだけど。
「ナナトロクです。七なのか六なのかはっきりしない名前ですけどよろしく」
写真部の二年生。七戸錄と書くのだと知るのはもっと後の話。
どうでもいいことだが、呼び名を決めた方が呼びやすいからとかなんとか言って、私が彼を「ロクちゃん先輩」と呼ぶという謎のノリが生まれたのもこの日だった。
こういうノリは意外と根強く残るもので、錄ちゃんの卒業が近くなった頃でも時折ふざけて「ロクちゃん先輩」と声をかけてみたりすることはあった。
ちなみに彼は私のことを普通に「実摘(ミツミ)ちゃん」と読んだ。
その日の錄ちゃんは微笑みと緊張をちょうど半分こしたような顔で、左の目尻の涙ぼくろがかわいいな、などと安直なことを思ったりした。
緩やかな彼の話し振りは私の緊張や警戒といった諸々をいとも容易く解きほぐしてくれた。加えて、高校時代の部活が同じ吹奏楽部だったことは私たち二人の会話に大いにアクセルをかけた。
「薄めの唇の感じとか、めっちゃホルンぽいなぁって思いましたよ」
などという非吹奏楽部員にはおおよそ響かない話の盛り上がりは、私たちがお互いに「この人話しやすいわぁ」と思うには十分過ぎるものだった。
初対面の印象とは非常に大切なものだ。天性の柔らかさに加え、人との関わり方の勘所のよさは女だらけの吹奏楽部時代に培われたのだろうと出会って数時間の私にも感じられた。
何はともあれ。あの混沌とした新入生歓迎会のような何かの中で一緒にゴマ団子を食べてくれた「ロクちゃん先輩」はわたしにとって居心地の良いことこの上ない存在となった。
それから私たちの間に積み重ねられた特別ではない時間の共有は、じわじわと二人を見つめ合わせ、ゆっくりと二つの心を溶け合わせた。
夏のはじまり、錄ちゃんが私を好きになる頃にはもう、私はすっかりと彼に心をひらいていた。
振り返ってみても、当時の私たちの付き合いはちっとも特別でもドラマチックでもなかった。なんの変哲もなくて、なんの事件も起きなくて、ただ幸せだった。
朝、どちらからともなく電話をかけて憂鬱な準備を一緒にしていたこと。休みの日は出かけるよりも、前の日から彼の家に泊まって午前中いっぱいダラダラ戯れ合うのがお決まりだったこと。
そういう、みぞおちの奥がふわっとあったかくなるような幸福感の中に私はいた。
だからなんとなく、私は私の中に巣食う小さなわだかまりを見なかったことにした。
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