【小説】陽だまりはそこにいた。最終話
前回
***
陽を思い出す時、私はいつも小さな鉢植えを思い浮かべた。
小さな鉢の中に小さな花が咲いている。細くて、触ったら壊れてしまいそうなのに、強くしなやかに咲いている。
まっさらでつぶらな花。カメラが少しずつ引いて、人影を捉える。その背中は陽だ。
陽はうちに来た時から苺を大事に育てていた。
スーパーで買った普通の苺からここまで育てたんだと誇っていた。花は咲くけど実がなかなかつかなくて「お前、生物としてどうなんだい」と陽につっこまれていた。
いつでも愛おしそうに世話をしていた。
陽が置いていった鉢は淡く白い光に包まれてそこにあった。
なんで残していくんだよと思ったら涙が出た。食器もない。服もない。元々、荷物は少ない人だった。まるでそんな人いないみたいに消えてしまうなら、何も残さないでほしかった。
私も私なりに世話をしてみようと思った。けれど、陽が世話している時にはあんなに強く咲いていたのに、どんなに頑張っても元気をなくしてしまった。
調べてみたら普通は植え替えや肥料の調節といった手間のかかる世話が必要と書いてあった。陽がこの鉢植えでどうやってあの子を育てていたのか全くわからなかった。
出番のなくなった鉢植えを捨ててしまった時、陽がいた証拠みたいなものが全部なくなってしまったことに気づいた。
まるでそんな人は最初からいなかったみたいな日常だけがあった。
私の身体の一部も陽が持っていってしまったみたいに痛いのに、陽は死んでしまった人より手の届かない場所に消えてしまったみたいだった。
陽を知っている友人に行方を訊いても誰も知らなかった。陽との連絡は付箋のメモで事足りたから、電話番号すら思い出せなかった。
陽がいなくなった。
私は結局、陽の何にもなれなかった。
陽が帰ってくる場所でもない。触れて、愛する人でもない。陽と、一緒に生きていく人ではなかった。
苦しかった。だから、忘れることにした。そんなひと出会わなかったことにした。
陽が私にくれた言葉も全部、もう心の奥にそっとしまった。
***
テオがあくびをしながら伸びをする。スペインの会社員ならこの時間はシエスタの時刻だ。
お昼寝でもしたくなる午後。テオが口を開いた。
「さっきの続きだけどさ」
私たちは中庭のベンチから一歩も動かずダラダラしていた。それぐらいここは心地いい。
「人と関われなくても、ってやつ?」
そうそうと彼が眉を上げて頷く。どうしたのと促すと彼は続けた。
「数週間前にさ、友達が俺に行ったんだけどさ」
ほらあの、日本人のと説明する。あぁ、さっき歩きながら語って聞かせられたかっこいい日本の友達か。
「そいつは言うんだよ。一人で生きればいいって。一人で歩いて、たまたま道が重なった時、一緒に歩くその人にありったけの愛を向けられればそれでいいじゃないかって」
かちり、と頭の中のピースが嵌った気がした。
朝からずっと心を掠めていた隙間風が、心臓を巻き上げるように強く吹く。
「ねぇその人、あなたになんて名乗った?」
もう考えるより先に問いかけていた。
テオは困惑しながらこう答えた。
「あぁ、えっと、sol (太陽)━━━━」
***
「そんなの寂しくないの?」
私が陽に訊く。扇風機の音がカラカラ響く。
体育座りで陽を見上げる私。座卓に置いた麦茶のグラスが汗をかいている。台所にはさっきまで二人で飲んでいた缶チューハイの空き缶。目線の先にいるのは陽。畳張りのちいさなワンルーム。
「寂ひふはいよ」
陽が言う。口にアイスを咥えたまま。
「結局、最後に独りぼっちだなって思わないの?」
あぁ、私の前からもいつかいなくなるんだ。そう思うと声に力が入らなかった。
「違うよ、ミツ」
陽は出会ったばかりの絶対零度の横顔とはもう違う、優しい眼差しを私に向ける。
「一人でいるしかなくて独りぼっちなんじゃない。一人でもちゃんと生きられるんだよ。ご飯食べて、仕事して、大切なものを自分なりに大事にできたら、人間なんて百点でしょ」
陽は続ける。私は子どもみたいに陽を見つめる。
「ミツがさ。誰かの相棒とか、恋人とか、誰かと二人で一つの片割れじゃなくたって私はミツが大事。一人で歩いて、たまたま道が重なった時、一緒に歩くその人にありったけの愛を向けられれば、私もミツもそれでいいじゃない?」
やっと、息を吸えるようになった気がした。
「変わったね、陽」
陽は左手で首筋をちょこんと触りながら笑った。
「ミツがいたからだよ」
***
きっとどこかで死んでしまったかのように思っていた。
だってもう、誰も彼のその後を知らなかった。
花が元気をなくして、蕾もつけなくなって枯れていった時、彼も一緒にこの世から消えていってしまったみたいに思った。
陽はここにいたのか。
心は追いついてこなくて、感情すらも沸いてこないのに、ただ呆然と涙だけが流れた。テオが焦った顔をして、それから遅れて頬に触れてようやく気がついた。
テオが心配そうにオロオロしている。私は必死で涙を拭いて、やっとのことで彼に訊いた。
「陽は、そのsolって名乗った人は、楽しそうに笑ってた? 幸せそうに話してた? 嬉しい時とか照れた時、左の、耳の後ろあたりを触る癖があるの。ねぇ、その人は、自由に、好きなように自分の道を歩いてた?」
ずっと知りたかったことだった。
責め立てるように私に言われてテオはどんどん混乱した。言い切ったらなんだか私も冷静になってきて、「ごめん、ごめん」と二人で笑った。
陽の話をした。
知り合いなら、とテオは陽とどんな風に出会ったのか、どこへ行ってどんな話をしたのか教えてくれた。
陽は今も金髪らしかった。今も「目玉焼きにはマヨネーズ」派らしかった。それから、とテオは左の首筋に手を添えて言った。
「やってたよ、これ。こうやって触ってさ。何年か前に一緒に住んでた子がいたって話しながら。面倒見いいのに、面倒くさくて、へなちょこなのに強くて面白いって褒めてた!」
「はは、それ多分褒めてないよ」
この泣き顔を陽が見ていなくてよかった。
「大事だから、これでいいんだって。いつか偶然会うことがあったら話したいことがいっぱいあるって」
変だよねとテオが笑った。つられて私も笑った。変だけど、それでいいのって笑った。
夕方に近づく頃、飛行機の時間が迫っていたのでテオと別れた。
テオは時間の許す限り空港の近くまで送ってくれた。心配になるほどいい奴であった。そんないい奴では心配だと言うと、こうやってトレドの街で出会った人と仲良くなるのがライフワークだから心配ご無用だと言った。
世界中に友達がいるんだから巡りめぐっていつか助けてもらえるかもしれないと。
連絡先を交換しようと持ちかけられたので、またどこかで会えるのを願って交換した。もう立派な友達だ。
本当に最後の別れ際、テオがおずおずと言い出した。
「お友達、連絡取れてないんでしょアドレス教えるよ? それに次の目的地は━━」
続く言葉は言わせなかった。
私はもう、その記憶に縋らなくても生きていける気がしたから。追いかけなくてもいい。一緒にいなくても別にいい。彼が楽しそうに歩いているなら、その道は私の道と同じじゃなくていい。
どこかで、陽が凜と立っている。
逞しく、しなやかに、そして、美しく。
入り組んだ迷路の道を抜けて、私は一人で歩く。
背後から吹き抜ける春の風は、もう出会ったあの日ほど冷たくはない。
終
ここまでお読みいただいた方。ありがとうございます。卒業制作だったこともあり、どんなに加筆修正を入れてもわかりにくかったことでしょう。テーマが情景と回想に関わる研究だったもので、今どこでいつ誰が感じているのか複雑に思われたかもしれません。お疲れ様でした。読んでくださってありがとう。よければ思ったことを教えてほしいです。
それから、この物語にイメージを貸してくださったてんぷらチヤコさん。ありがとうございました。
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