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琳派・宗達絵画の中の禅仏教〔牛図について〕

「琳派の宗達」 



 琳派の祖とされる400年くらい前の京都の画家、俵屋宗達の作品は、今なお私達を魅了する。その遺された業績の値打ちは、計り知れないものがある。
  作品中に縦横無尽に走る筆遣いは、今日も生きて生命力を保っているし、発想は斬新で、奥深い。現代の我々も未だに宗達芸術に追い付いていないところだらけだ。橋本治氏が著書の中で、琳派は日本美術の頂点に立っていると書かれたとおりではないかと思う。

「宗達の牛図」



 その俵屋宗達が描いた、「牛図」という作品がある。2幅で1対になった水墨画の掛け軸作品だ。牛の体の表現に、「たらし込み」という技法を駆使していて見ごたえがあり、たらし込みの代表作でもあるし、宗達の代表作のひとつでもある。

 この作品をじっくりと辿って見てみると、まずごく薄い墨の線で、牛の体の輪郭線をとっているのがわかる。そもそものスタートは白描画だったというところに、まず軽い驚きがある。白描画とは、古い絵のかき方で、ものの輪郭線だけで描く方法だ。その歴史は古い。水墨は12世紀くらいに成立した描き方で、輪郭線をとらずに水と墨の混ざり具合で立体的に表現する。
 牛図も、これだけの水墨でありながら、白描画として描いた輪郭線のなかに、まるで色の絵具を着彩する時と変わらないやりかたで水と墨を置いている。白描画と水墨と、両方の描き方を絵の中にミックスすることはある。しかし宗達のやり方は、宗達なりの方法だと感じるし、絵の発想の自由さにもまた魅了されるものがある。

 そして、着彩の方法で宗達は何を描きたかったのか。
 私が子供のころは、發墨の凄まじさに目を奪われてしまって、まったく考えられもしなかった。それが今は、黒い牛なのだということが分かる。少し冷静になったものだ。
 牛の筋肉の隆起に沿って、丁寧に輪郭線がとられていて、それだけでも相当な美しいデッサンである。つぎに、筋肉の隆起に合わせて光と影を描いている。隆起して光を反射して、光は牛の前方より来る。つよく盛り上がったところには、濃く深い影を落として、陰影のコントラストを描いている。
どうしてこの牛は、こんなに隆々としているのだろう?
本当に黒い牛なのだろうか?


「この牛は何をやっている、どこの牛?」



 私は今は、この牛は、労働牛だと思っている。子牛のころから、可愛がられたことのない、こき使われてばかりの一生を過ごす牛だ。私は身近に牛はいないので、その一生がどれほど凄まじいのか、よく分からない部分がある。そういえば、日本霊異記には、前世での行いが悪くて人が牛に転生させられたりする話が結構ある。それくらい、牛としての一生を送ることは、不幸であるのだろう。それはきっと、江戸初期の宗達の時代にも、人々の実感として、変わることはなかったはずだ。


 こんなに自らの技法を編み出す宗達は、本当に水墨画の名手としての自負があったのだろうか?今の私たちは、この作品をみても評価できる。評価できるのは、それが自分たちの感覚に近いからだ。写実というよりも、抽象表現にベクトルが近いだろう。では、当時はどうだったかというと、そんな抽象に重きを置かなかった。当時の感覚で、うまい人の王道をいっている画風ではない。たとえば狩野永徳をうまく描くことのできる「売れっ子画家」の代表におくならば、宗達の描くものはやはり粋人好みかもしれない。

 実際には水墨画は苦手で、その理由は、絵が嫌いなのではなく、中国風の絵画がとことん性に合わなかったからだろう。水墨=中国の美意識を受け入れることになってしまうので、あまりやる気がしなかった時期が長かったのかもしれない。もし子供のうちから、中国水墨に慣れてしまっていれば、かけないような作品ばかりだ。白描画のなかにわざわざ發墨をもってくるのも、見ていて珍しい。宗達が年齢としていくつになってからなのか、誰の影響があったのかまるで分からないが、そうとうに大人になってから水墨の研究を始めたのだろう。それも、こころの胸襟を開くというような姿勢ではなくて、いやなものはいやだが、とれるところはとってくれよう、という姿勢がうかがえる。おそらく扇制作での商業的な成功体験が基になっているのだろうが、自信があり、水墨画に食われていない。楽しんで技法を発見をして、自分がおもしろいように自在に扱っている。このスピリットが宗達だ。

 大人になってから学ばなければ、できそうにもない技法の発想が続き、宗達だけの芸術世界を形成している。きっと宗達もその時は、「ずっと食わず嫌いだったけれど、水墨もたのしいな」と思ったのだろう。それ以前は相当に葛藤があり、自己嫌悪にも陥ったのに違いない。しかしながら、いやなものは断固拒否するこの彼の性格というか、損もいろいろしたのであろう人物像が牛図からもうかがえる。

 大人になってから始めた水墨で宗達は、人々が不幸の象徴のようにおもっている牛を、それも神牛のような神々しいものではなくて、「労働する牛」を描いた。もし宗達が華々しい「売れっ子画家」であったのなら着眼できないモチーフだ。その描かれた牛の筋肉は、その牛の全人生を物語っている、いわばプロフィールのようなものだ。それを、意図的に、丁寧に描き出している。汗と、黒い牛なのかどうか分からないが、ひょっとしたら田から出たところで、泥と水で濡れて光っているのかもしれない。腹の下のあたり、田水でぬれて激しく光を反射している。毛並みの整えられた、色艶のいいかっこいい牛ではないのだろう。もっとごつごつとした、ゴッホの馬鈴薯を食べる人たちの家にいてもなじむような牛なのだろうと思う。

 そのような牛の絵の作品が存在しても良いと思うのは、プロレタリア・アートを経験している今の時代の我々だからだ。宗達の時代、絵画はもっと、装飾であった。そんな私的な理由で絵を描くという発想はない、それは職人の世界である。
 では、どんな場所であったなら、この絵を尊ぶのだろうか?どこであれば、作者とおなじように、この牛たちの中に尊びを見いだせるのだろうか?それは、一般人のはずはない。日本霊異記が牛の定めを残念に感じたのと同じところ、仏教徒のいる場所である。


「宗達と禅林」



 宗達は、その時代にしてはひとりとびぬけて、どうして私的な作品つくりに没頭し得たのだろうか?もちろん、そういう画家の作品はたくさんあるのだろうが、私はその程度の深さは違うと思う。
 私は宗達は、私的なという理由だけではなくて、何かの表現のために、その価値観を共有できる誰かとともに、描き出した作品を遺しているのだと思っている。その対象となる場所や、悦ぶべき人はといえば、作品中におのずと浮かんでくる。仏門か禅林の僧侶なのだろう。
 生涯の記録がほとんどない宗達だが、1通の書簡がある寺に遺されていたという新聞記事を読んだことがある。竹の子を贈ってくれてありがとう、という内容だったそうだ。僧侶との間にごく親しい関係性を築いていた様子が伺える。あれは京都のどこのお寺だっただろうか?禅林でよかっただろうか?その寺院については今一度調べてみないと心もとない。

 禅といえば、一般の素人の私たちは、すぐに座禅三昧で禅問答があって悟りを開くのを至上としているように想像するが、当時もそんな風のだろうか?多分、ちがうと思う。もっと日常の行いのなかに潜んでいる、真実の姿を捉えることに対して、熱心だった様子だ。というのは、今の時代ではちょっと存在できないような素っ裸の僧侶が、毎日何をやっているのか分からない感じで往来を歩いていたり、橋の下で乞食といっしょに生活をして修行するとか、そんなことをやっていたようだ。宗派にもよるのかもしれないが、座学をひととおり終えたら、在野に出て行って修行するスタイルだったらしい。このような修行僧の実戦や僧侶の実態は、白隠の作品中にたびたびテーマで取り上げられている。

 宗達と禅僧がどのような会話をして、どのような経緯でこの牛図が生まれているのか、ということは推測でしかない。それだとしても、思い浮かぶところがある。それは、禅の悟りの在り処に「労働」があるということだ。一心不乱に労働している最中に、おのずと精神が統一されていて、その状態が最高だというのである。「不見色」などという言葉で説かれたりもするようだ。ちょうど、白隠の絵画の中にも、茶摘み歌が描かれている。夢中でお茶の新芽摘みの反復動作をしているうちに、おのずと精神が整ってくる。ありのままの自我でありながら、欲から離れ、調和がとれている。このように労働の中に現れる悟りの境地を非常に崇めていて、とても勧めている。
 現代の我々が解釈するとすれば、単純な反復運動は脳に良い作用をもたらすという科学的なデータがある。そういう精神の安定作用としてとらえてもいいのだろう。師匠がばたんと扉を閉じた音がした瞬間に悟りを得た、という人もいるくらいだから、禅をただしく理解し、日々の修行のはてには、そうした茶摘み作業のなかに絶対的な真理を見出すこともあるのは想像に難くない。

「天を仰ぐ牛、座して安らぐ牛の姿」


 宗達の牛は、2頭いて、片方は天を仰いでいる。もう片方は、安らいで座している。
 生涯、だれからも誉められもせず、鞭をあび続けて、楽しみも与えられない。思想があるわけでもなく、生きることはそういうものだと思って、ただただ労働に忍従している牛たちだ。筋肉が盛り上がり、痩せていて肥った感じはなく、おそらく筋(すじ)ばかりなのだろう。だからこの水墨画も、一見するとそんなに牛のたくましい筋骨を描いているようには見えない。發墨の見事さの方に目を奪われてしまう理由がそこにある。

 そのような筋(すじ)ばかりの牛の、どこに救いがあるのだろう?と僧侶は問われたのかもしれない。すべてのものに仏性があって、それだから救われるのだ、という話を宗達は拝聴したのかもしれない。遡ってみれば、じゃあ牛みたいのはどうなんだろう、私という人間はどこで報われるのだろう?という質問を投げかける日が宗達にあったのかもしれない。どうやってこの苦しい人生を最後まで生きられるんだろうかと。
 そして、牛のいるところまで連れていってもらって、筋ばかりの牛の体にきざまれた筋肉の隆起したプロフィールを見てきて、「美しいな!」と思ったら、なんとか描いてみたいと思うでしょう。天を仰ぐ牛の姿に、仏性を表現したくなるでしょう、まあ、、私だったらなる。十分な動機がある。
 これほどに高い完成度で描ききった宗達の、そもそも胸のなかにあった苦悩とはどのようなものだったのだろう。相当な何かがあったに違いない。それを、美しい發墨の表現で昇華させて、ほんとうに見事だと思う。ひとの心を打つ迫力は、いつもそのような所からでてくるのだと私は信じている。

 素朴な疑問だが、牛はこのように上を向いて、天を仰ぐのだろうか?
 牛の首は、食べた草を反芻するためにあるようなものなので、地面を向くのにほとんどの筋肉が発達しているはずだ。いななくという事はあるのだろうが、宗達が描く牛図では、45度を超して、かなりの角度で天を仰いでいる。このように上を向くことは、よほどの精神的な理由があってのことのように思える。おそらく一瞬の牛の動きだろうが、宗達はよく観察してみごとに描いている。宗達の描く牛があまりにも自然な造形なので、牛が身近でない私たちはつい見過ごしてしまうのだ。これが牛にとってどんな意味のある動作なのか、ということを。


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