失敗を約束されている人に対して、救おう正そう、と、おこがましく考えた私のお話。

例えもし今私がコロナ陽性になったとして。
取り急ぎの食事はUberがあります。
ドライブスルー診察できる近所の病院も分かる上に診察券も作ってあります。
夫氏と息子氏が陰性の場合、家庭内別居できるだけの部屋数もあります。
マスクも消毒液もレトルト離乳食も十分にストックがあります。
なので、職場や保育園への迷惑を最小限に抑えて暮らせると思います。

でもそれは準備期間があったから。
2年前なら絶対に、その全てが無理でした。

あの頃私はただでさえ疲れていました。
不妊治療、並行して慣れない仕事、覚えが悪くパワハラに近い叱責を受ける日々。
錯綜するコロナ情報。
ナプキンもトイレットペーパーも棚から姿を消しました。
不織布マスクを使い回さねばならなくなった時、私はコロナに負けたと思いました。
コロナ禍の終わりが見えず、それは今も見えないけれど、一寸先すら見えない感覚でした。
当時はまだ自費だった不妊治療。
自費の治療は不要不急ではないから、と一旦中断した時、私のメンタルはボロボロでした。

そんな私の様子を見た同僚の女性に
「あなたがそんな調子じゃ旦那さんがかわいそう」
とキツく叱られました。

彼女の言うことは正解です。
どうしてこんなことになったのだと落ち込むのは無駄です、そんな暇があったらマスクや消毒液を買いに走るべきでした。
どれが正しい情報か分からず悩むことも間違いです、正しい情報を素早く見極めて行動しなくてはなりません。
私がデマに惑わされてドラッグストアに走った時、店頭にはもう箱ティッシュはありませんでした。
その時買ったポケットティッシュはまだほとんど残っています。
私は物流を乱す行いに加担しました。
正しく情報を伝えようと心を砕いている専門家の足を引っ張りました。
つまり私はダメな人間なのです。
だから今後はたた黙って専門家の言うことを聞いて生きてゆくべきです。
…と、思いますか?
彼女に、そして、そう思う方に大変申し訳ないのですが、私はそう思わないのです。

狼狽えること、選択肢を間違うこと、初期動作が遅れること。
初めての場面、慣れない場面で、人間ならば誰しも当然、あることだと思うのです。

コロナ禍に限らず、例えば
「新学期の自己紹介考えておきなさい」と親に言われたのを無視し、結果上手く喋れず友達作りが遅れたとか
聞いていたにも関わらず、初めて降りた駅の構造が複雑で迷って約束に遅れたとか
それは非難されることではなく、自分で考えて、次に活かすことではないのかと思うのです。
自分で考えて、という所が重要な点だと考えます。 

話を戻してコロナ禍初期。
もし錯綜する情報をロクに調べもせず鵜呑みにしていたら?
心身が疲れている時に、正しい情報の見極めや正しい行動を、必ずできるものでしょうか。
今の私はきっと、いや確実に、陰謀論者になっていたと思います。
自分で考えない、調べないというのは、そういうリスクを高めることです。

自分で考えることを放棄しても
納得せず誰かの言いなりになっても
結果他人に責任をなすりつけて生きることになるのです。
そんな無責任な生き方より、多少ミスをして生きたい。
遠回りして、結果、ベストな選択でなくなったとしても、それが自分の選択です。

私は私、人は人。
足並みも、選ぶ道筋も、違って当然なのです。
私の歩き方とルートが正しいのだ、と、人を押さえ付けて足を持って動かしたって、何にもならないのです。
人それぞれ道があって、例え私が正解だとしても、その道に無闇に立ち入るべきではないのです。

長々書きましたが、最近
『常に正しい行動を取ることの無謀さを知っているのに
他人にそれを求めている自分』
を見つけてしまい、その葛藤と反省を綴らせて頂きました。

以上、失敗を約束されている人に対して、救おう正そう、と、おこがましく考えた私のお話でした。

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