ベルエポックの残映 【小話・4343字】

 寿司屋のカウンター席、男と女が並んで座っている。
 積み上げてきたものという過去の遺物で成る自尊心が腹で発酵している男は、その醸造物と酒に酔い、すっかり悦に浸っている。一方、女のほうは解けない緊張と食後の睡魔のはざまで、ただただ時が過ぎるのを待っている。

「大将、かんぴょう巻、包んでくれる? おみやげに、かんぴょう巻」
「あいよっ」
「おい、おまえも食べるか、かんぴょう巻。ん?」
「あ、結構です。ありがとうございます」
「大将、こいつも食うってさ。かんぴょう巻、二つね」
「あいよっ」
「あ、いや・・・」
「かんぴょう巻は帰ったら食うんだよ。呑みすぎたぁーって言いながらな。全部は食わねえで、少し残しておいて、明日の朝、お茶漬けにするんだよ。あっ、こんなことしたら大将に怒られちゃうかしら? 大将、そういうのは失礼にあたる?」
「いえいえ、どうぞどうぞ」
「うまいんだよ、ここのかんぴょう巻。おまえなんかはどうせ、小腹がすいたとか何とかいって全部食っちまうんだろ。ええ? 寝る前にたくさん食うと太るぞ。ええ? どうなんだよ」
「食べちゃうかもしれないですね。はい」
「大将、こいつ、かんぴょう巻食いたいってさ。おみやげと別で今つくってやってくれる? かんぴょう巻」
「あいよっ」
「いや、いいです、いいです。かんぴょう巻、大丈夫です」
「ああ? なんだ? かんぴょう巻じゃないのか。じゃあ、大将、かっぱ巻、つくってやってくれる? かっぱ巻」
「あいよっ」
「いや、いいです。かっぱ巻もいいです。大丈夫です」
「なんだ、じゃあ、鉄火巻か?」
「いえ、鉄火巻も結構です」
「なんだよ。あ、そうかそうか。太巻か。太巻だな。まったく、めんどくせえもん食いたがりやがって。大将、こいつ、太いのがいいんだとよ! 太巻つくってやってくれる?」
「あいよっ」
「太巻も結構です。私、もうお腹いっぱいですから大丈夫です。もうたくさん頂きました。ごちそうさまです」
「なんだよ。いいのか。なんだよ、そうかよ。かんぴょう巻食いたいって言ったんじゃなかったっけ? ん?」
「言っていません。家に帰って、小腹がすいて、おみやげのかんぴょう巻を夜のうちに全部食べてしまうかもしれないっていう、そういうお話でした」
「ああ、そうかい。ああ、そうですか。それはそれは大変失礼いたしました。私がわるうござんすよ。へーへー。そうならそうと、最初からそう言ってくれろってんだよなぁ、大将」
 大将は営業スマイルで応える。
「すみません」
「なんだよ、何のすみませんだよ。何にすみませんだよ。ええ? なんでもかんでも『すみません』って言ってりゃあ事が済むとでも思ってるんですか? どうなんだよ、ええ?」
「そんなふうには思っておりません」
「まったく。なんだよ、おまえは。頭のない女だねぇ。あるだろうよ、言い方ってもんがさぁ。大体にしておまえは愛嬌がなさすぎる! 暗いんだよ。暗い! おまえには人を思いやる気持ちがない! 思いやりの気持ちがないから、そうやってブスっとしてられんだよ。男は度胸、女は愛嬌! おまえねぇ、女なのに愛嬌がなかったらどうすんだよ。ええ? どうすんの?」
「すみません」
「ほら、またこれだ。いやんなっちゃうねぇ。すみませんすみませんって。『すみません』でなんでも済まそうと思いやがって。まったく、悲しくなってくるよ。おまえを見てるとこっちまで暗くなる! ねえ、大将。どうしてこの女は分からないんだろうねぇ、まったく」
「あんまり気にしないで。酔っぱらいの言うことだから」と大将。
「ほらっ、そうやって助け船を出す。そうやって甘やかすから、いつまで経っても分からんのですよ、この女は。図に乗って! ええ? これでいいと思ってんだろ! 自分は間違ってないとでも思ってんだろって。ったく。ろくでもないね。おまえねぇ、言っておくけどねぇ、こうやって注意してもらっているうちが花だよ。いいかい? 俺はねぇ、酔っぱらっていることは酔っぱらっているけれども、頭はちゃんとしているんだ。おまえのことを考えて言ってやってるんだからな。分かるな? 確かに、酒のせいで口の回るのが鈍くなって聞きづらい部分はあるだろう。うん。それは謝る。うん。が、しかしだね、よく聞きなさいよ。これだけは言っておく。いいかい? 注意してもらえるうちが花だよ。な? そこのところ、分かれよ。ちゃんと、今、言われたことを素直に聞いて、自分の間違いに気付け! そして、直せ! いいな? ええ? 聞いてんのかよ!」
「はい」
「『はい』だってさ。分かってないねぇ、ほんとに」
「ありがとうございます」
「『ありがとうございます』だってさぁ。まったく」
「いや、本当に、ありがとうございます。いろいろとご教授いただけて、うれしく思っています。『いい女になったな』と言っていただけるように改善して、頑張っていきたいと思っております」
「まったく硬いねぇ。酔いがさめらぁ」
「すみません。あ、いや、あの、『すみません』って言ってすみません」
「ついでだから、おまえにいいことを教えてやるよ。あのねぇ、これは大切なことだよ。よく聞きなさいよ。おまえねぇ、早く結婚して子どもを産め。な? いいか? 仕事がしたいんなら余計そうしろ。女は特に、特に、子どもがいないと駄目なんだよ。分かるか? 世の中はそういう仕組みになっているんだよ。これはどうしようもないんだ。な? 良いとか悪いとかじゃあないんだ。そういうもんなんだ。な? 離婚してもいいんだよ。離婚は結構。でも、一回は結婚して、とにかく子どもを産め。そうじゃないと、いろいろうまくいかなくなるから。な?」
「・・・」
「結婚しないし子どもも産まないのに成功している女っていうのは、有産階級の家の子か、本人がよっぽど優秀なんだよ。おまえはそこまでじゃあないだろう? だからな、おまえみたいなのは、とにかく早く結婚して、子どもを産め。子育てが落ち着いたら、自分のやりたいことを好きなだけやればいいんだから。人生、長いんだから。な?」
「・・・」
「二階俊博先生が言っていただろ? 『この頃はね、子どもを産まないほうが幸せに送れるんじゃないかというふうに、勝手なことを自分で考えてね』ってな。子どもを産むっていうことが、女の一番大事な仕事なんだよ。それは女にしかできない一番尊い仕事なんだよ。それをしないっていうのは、自分勝手なことなんだよ。な?」
「・・・」
「麻生太郎先生も言っただろ? 『高齢者が悪いようなイメージを作っている人がいるが、子供を産まないほうが問題だ』ってな。そういうことなんだよ。な? それに、今時の支援金だって、貧乏人だろうが何だろうが、子どもがいる世帯にだけ金というのは出るんだよ。貧乏な一人者にまで手を回す理由がないんだよ。分かるだろ? そんなもんに金をやったって、金は増えねえからな」
「・・・」――ああ、眠い。帰りたい。
「聞いてんのかよ!」
「はい」
「貧乏人に金をまけば、『ばらまきだ!』って怒るやつがいるだろう。貧乏人は金を使うだけ使っちまって、はい、おしまい。金を増やすことに金を使わないと、金っていうのは減るばっかりだからな。貧乏人は穀潰しなんだよ。生産性のない穀潰し」
「・・・」――明日のお昼は何を食べようかな。
「いや、貧乏人の話はどうだっていいんだ。女だよ、女。女っていうのはさぁ、いろいろ金がかかるだろう。女には金づるが必要なんだよ。な? 親はいつまでもいない。夫はあてにならん。だから子どもだよ。この国はシングルマザーにはやさしいんだから。な?」
「・・・」――新しい唐揚げ屋さんができたんだよなぁ。よさげだったなぁ。
「それにねぇ、女ってのは、ねたむだろ? な? 子どものいる女は子どものいない女に対して、子どものいない女は子どものいる女に対して、ねたむんだよ。だから、組織にとっても、社会にとっても、みんなにとっても、女は取りあえず一度は子どもを産んで育てているっていうほうがいいんだよ。な?」
「・・・」――そういえば、あそこのカレーを久しく食べてないな。
「森喜朗先生も言っていただろ? 『女性っていうのは競争意識が強い』、だから女の多い会議は長引くってな。女同士の争いに挟まれる俺らの身にもなってみろよ」
「・・・」――唐揚げとカレー、どっちにしようかな。あっ、テイクアウトにして、カレーと唐揚げ、両方いっちゃう?
「あの人はいいこと言うんだよなあ。『子どもを一人もつくらない女性が、好き勝手とは言っちゃいかんけど、まさに自由を謳歌して楽しんで、年取って税金で面倒見なさいちゅうのは、本当はおかしい』ってな。もうおっしゃるとおりなんだよ。二階先生も麻生先生も森先生も、憎まれ役を買って出てくださっている。先生方がおっしゃっていることは、まさに人間社会の根本原則なのだ。そうだろ?」
「・・・」――うーん、ラーメンもいいな。
「おい、聞いてんのかよ!」
「は、はい」
「じゃあ、俺が今話したことを、簡潔に、かつ、的確にまとめて言ってみろ」
「はい。えっと、太巻寿司をお茶漬けにすると、おいしいというお話でした」
「おまえ、話を全然聞いてねえじゃねえか! 太巻寿司じゃなくて、かんぴょう巻だよ!」
「あ、かんぴょう巻でした。間違えました。失礼しました」
「太巻寿司でもおいしいだろうよ。おいしいだろうけれども、俺が言ったのはかんぴょう巻だ!」
「はい。そうでした。かんぴょう巻でした」
「いや、違う!」
「へ?」
「その話じゃない! その話の後だよ! 今、大事なことを教えてやっていただろう?」
「ああ、はい。もちろん聞いていました。カレーと唐揚げを両方いくか、ラーメンにするかというお話でしたよね」
「はあ?」
「へ? ・・・あ」
「おまえなぁ・・・、ああ・・・、駄目だ。めまいがする。こいつ、全然、話を聞いてねえ。大将! 俺はもう帰る!」
「あいよっ」
「あれ? 俺、穴子と玉子は食べたっけ? 最後は穴子と玉子って決めてんだよ。食べたっけ?」
「はい。先ほど召し上がられていました。穴子も玉子も」
「ああ、そうでしたか、そうでしたか。どうもすみませんねぇ、ぼけちゃってさぁ。年を取ると物忘れがひどくてねぇ。すみません、すみませんだーってんだ。こんちくしょう。大将! お勘定!」
「あいよっ」
「大将、ごちそうさん。山田、またな!」
「いや、私は山田ではございませんで、私の名前は・・・」
「知ってるよ! 飲み会を絶対断らない女を見習えってことだ! まあ、おまえに『断る』という選択肢はねえけどな!」
「あ、はい。すみません。あ、すみませんって言ってすみません。ありがとうございました!」
「大将、またね。じゃあな、山田! チッ」
「今日はどうもありがとうございました。失礼いたします」――ということは、次は7万円のフルコース?! やば。



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