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自分の弱さズルさを嫌う


金曜の夜、夫と長話をしていて0時を過ぎた頃。
(洗い物が残ってたな、面倒だな)
そんな事を思いながら、洗い物を始める私のそばに来て「ありがとう、妻ちゃんって本当に偉いよね。」と夫は言った。

いつもなら夜ご飯の食器は水に浸けて置いて、翌日の朝ご飯の食器と一緒に洗うからだ。

「明日ここに置いてある食器を洗ってくれちゃうでしょう?」と私は答えた。土日は夫の方が早く起きて、気付いたものを片付けてくれたりする。

その日はお風呂に入りながら、週末の過ごし方をだいたい話していた。

「そのつもりでいたんだけど…」
眉の下がった夫の目が、とても愛しい。

「ここに洗い物が残ってることを私は知ってて、気付いてもいる。何も言わずに残すのは、夫ちゃんがやることになるのを予測出来ているのにお願いもせずやれと言ってるのと一緒。そういうの、気持ち悪いよ。」

本当に忘れている時なら明日の朝、素直にありがとうが言える。どうしても面倒な時は「洗い物、起きたらやるから置いといて」なり、「明日先に起きたら洗い物お願い」と甘える時もある。

夫は愛しさの込もる呆れ顔で「ほんと自分の弱さズルさを嫌うよね。」と言った。「もちろんその考え方も妻ちゃんの魅力で、尊敬するところだよ」と私を優しく撫でる言葉を添えて。

「そういうズルくて醜い心の動きに気付いた時、とてつもなく嫌になる。私はそういう人間だ。
好きだろ?」そう言い放つ私の頭を夫は「もうー」と言いながら撫で回す。その愛情表現をじっと黙って受け入れる。私はベッドにいる時以外、頭を撫でられるのが嫌い。


この思考は社会人になる頃には出来上がり、色んな事に当てはまった。自分を嫌いになりたくない、好きでいたい、好きだと思える部分を増やしたい。赦されたい私が、なるべく自分の狡さ醜さと向き合わずに済む為のものだった。
とても生き辛かった。

同時に狡さ弱さを使って甘える人間が憎く、羨ましかった。そういう人と出会うと母や姉を連想させ、他人の気持ちの上に成り立っているその行為が酷く醜いものに映った。
無条件に守られているようで、羨ましかった。
透けて見えない狡賢さは、私も欲しいものだ。


今の私は、随分と生きやすくなった。

何者でもない私に、水やりをしてくれる人達にたくさん出会った。好きでいてくれる人達の愛情を素直に感じられる。色んな事を手離して、受け入れて、赦してあげられる。こびりついたものも、きっとゆっくり溶けていくだろう。
そんな確信に近い未来が見える気がするのだ。

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