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ストレスを理由とする無差別犯罪を考える

今日は朝から強い日差しが照りつけました。往復の電車内にも容赦なく日が差し込んできます。それを避けようと乗客が電車の片側の座席に集中して座るようになりました。これで電車が傾いて脱線……は、まず起こらないのでしょうね。

さて、……。

「ストレスが溜まって、つい……」

これ、犯罪者の口から出る確率が結構高い言葉だと思っている。でも、大抵の人は犯罪に至らないことを考えれば、本人は無自覚なもののストレス耐性が低いことも要因である。

そして、遵法意識が欠如し、そんなことをしたらどうなるかを想像する力も弱い。自分が犯人として逮捕される可能性すら考えなかったのだろうか。

そもそも人を傷つけている時点で、人に対する優しさに欠けている。加えて、やられた被害者への共感能力もない。

仮にストレスの原因が被害者にあるのであれば、やっちゃったことはともかくまだ情状酌量の余地が出てくるかも知れない。でも大抵の場合、被害者は加害者とそれまで何の関わりもなく、その加害行為がなければ一生関わることもなかった可能性が高い。

自分の感じるストレスによりむしゃくしゃした気持ちを抱く。その捌け口として何の関係もなかった人に対して加害に及ぶ。これをやられた方はたまったものではないし、それこそ多大なストレスを生む。

実際、被害者は受けた直接的な被害に加え、精神的にも少なからぬ影響を受ける。そしてしなくてもよい「なぜなぜ分析」をすることになる。正直なところ、いくら考えても答えは出ないし気分が晴れることもないのに、隙間時間があるとこの分析をし続けることになる。

「ああしておけば」「なぜ私が」「こんなことをする人がいるなんて」「何か私が悪いことをしたのかしら」「警察は何をしていたのかしら」

道徳から遠く離れた行為をしてしまう人の思考過程は、いくら考えても理解できないのが当たり前だ、くらいに思うべき。でも、何とか心の平穏を取り戻したくて、考えてしまう。分からないことはまさにストレスとなるのだから。

そんな状態に人を突き落とすことを想像できない人は、恐らく一般社会で生きるのにも困難を抱えていることは容易に想像される。結果としてストレスの多い生活になっていたと推測される。

こうなると、加害者の思考過程の理解は無理でも、加害者を取り巻く客観的な状況が論理一貫で繋がってしまう。

大人になって人格完成後になってから加害者の不足した人としての情に介入しても、改善できる可能性は低いのではないか。世の中はどうにかできることばかりではないし、だからこそどうにもならないことがあるとの達観も、時に必要だと改めて感じる。

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