人とつき合う、人でつき合う
外に出た瞬間に襲ってくる熱気には、殺意がこもっているとまで感じます。
さて、……
人間関係について、少しシビアなことをお伝えしたい。人とおつき合いできるのも能力である。
人づき合いが苦手な人、意外に多いと思う。でも、能力の有無に起因すると考えれば、少しホッとする部分もあるのではないだろうか。
私達は子どもの頃から「友だち100人できるかな」といった、人づき合いはできて当然というイメージを刷り込まれてきた。しかしながら、これは正しくないと声高らかに申し上げねばならない。
かつて人類が狩猟採集生活をしていた頃、個体としての攻撃能力は多くの動物に劣後していた。それを補うために狩りも集団で行っていた。この時に、相互のコミュニケーションを緊密に取る必要があった。
そのために、目線や身振りによるコミュニケーションを的確に取りつつ音を立てず声も発せずに獲物を追い込むことができるようになったのだけど、これは当然誰でもできるものではなかったと思う。
縄文時代よりはるか昔から、このような生活により命を繋いで現代に至った我々の先祖のコミュニケーションに対し、多大な敬意を表するものである。でも、他人の意図を察することができない者は、やはりいたはずである。
当時そういう者がどういう扱いをされ、どういう役回りを与えられていたのかは分からない。個人でも生活の糧を得られる木の実採集や貝拾い担当に回されていたのかも知れない。
もしかしたら、集団から追われて1人での生活を余儀なくされていたのかも知れないのだけど、これは定かではない。
人間が他者とお付き合いするのには、言語により明示されたコミュニケーションだけではなく、言外の黙示の意思表示の読み取りも必要とされる場合がある。上下関係がしっかりある場合はなおさらである。
それができない人がいる、しかもできないのは持って生まれた能力が無いからであるという理解が進んだのは、20世紀もかなり押し迫ってからではなかろうか。
いわゆる大人の発達障害という言葉が人口に膾炙するようになってからであろう。これができないが故に仕事までもできないと言われ、無能の烙印を押され、本人もそれに苦しんで心の病を発症する場合も多い。
実は、人とつき合うことができている人の中には、他者を駒として使うことで自己の立場をより良いものにしようとする人がいる。言い換えると人を手駒という手段としてつき合うのである。サイコパスと言われる人にこの傾向がある。
小さい頃、友だち「と」遊ぶ人が大多数だったなかで、友だち「で」遊ぶ者がいたと言ったら、あなたはそれを否定しきれるだろうか。
人と人のおつき合いというのは、意外と単純ではないもの。持って生まれた性質について関心を持つと共に、おつき合いが下手な人に対して責めずにできることをやってもらうように切り替えること。これが大事なのだけどまだまだ理解が低いと思っている。
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