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「セクシー田中さん」の日テレ調査報告書を読了し、原作とドラマについて考え直してみた

今日は雨の恐れもなくきれいに晴れました。今日は上司が出張のため不在ということもあり、懸案事項の整理に注力することができました。こういう日があってもよいと感じます。

さて、……。

ここ数日「セクシー田中さん」の日テレ調査報告書について記事を書いてきた。

実は、この作品及びドラマ化については、SNSで騒動が発生するまで知らなかった。つまり、申し訳ないけどファンではないしドラマを観てもいない。

それでも本件に強い関心を持ったのは、自分も一応クリエイターの端くれの爪の垢としてnoteを書いており、5冊の書籍を電子出版してきたからである。従って、立ち位置はどうしても原作者寄りになってしまう。

漫画や小説を原作としたドラマは枚挙に暇がない。リメイク版も出された「白い巨塔」は山崎豊子さんの小説が元であるし、草彅君が主演した「いいひと。」は高橋しんさんの漫画が原案となっている。

もちろん、原作のないテレビオリジナルのドラマというのもあって、個人的には「僕シリーズ3部作」は好きな作品である。

小説にせよ漫画にせよ、ドラマで実写化するには限界はある。例えば小説や漫画では簡単な「壁に一体化して見えなくなる」シーンを実写では再現できないし、「迫り来る敵を避けて天井に張り付く」ことも不可能。改変が伴うのは不可避だろう。

そういう自然の力に逆らうことの他、出演する俳優達が売れっ子であればあるほどメンツを揃えるのは至難の業となる。その希有の機会に一気に話を展開させる、エピソードを追加したいとなれば、改変せざるを得なくなるだろう。

そういうやむを得ない事情なら、それを現場の意見として原作者に対してしっかり主張すればよいだけ。でも今回の日本テレビの報告書で「制作サイドの提案を原作者が拒絶したから元に戻す」のを受け入れられる程度の「必要性」って、本当に必要だったのか。疑問しか感じない。

そういう「どうでもよい思い付き」への対応に忙殺されて、神経をすり減らすことになった原作者の苦労を思い、改めてご冥福をお祈り申し上げたい。

原作がそれなりに人気を博していれば、ドラマの企画を立てて会議で了承を得る際の説得力が高くなる。既にコアなファンがいるから視聴率も見込める。それをテコに世間の注目も集めやすくなる。

原作があればストーリーを一から創作する手間を省けるし、ファンがいるから大コケするリスクも下げられる。また、実際に大コケしても「売れると思ったのですが」といった言い訳もしやすい。

見方を変えると、小説や漫画の世界で予選を勝ち抜いた勝ち馬に目をつけて一本釣りしている状態のように思う。釣った魚に餌をやらないのは世の常である。

そういうやり方が美しいとは思わない。それでも、生きる術としてはやむを得ないと受け止める程度には私も世慣れたオジさんである。

ただ、それが作品に心血を注いできた原作者にも通じるとは思わない。確固とした世界観を持つ人間に対して、思いつきをぶつけるのは非礼だと思う。原作者の世界観に風穴を開けるくらいの理屈を、熱意を持って説く。それをできないのであれば、黙って「ロボット的な脚本起こし」に徹するべきであった。

それは決して自らを卑下するものではないはず。職人としてレシピ通りの一皿を作り上げる人を蔑む人などそうそういない。いても黙殺すればよい。そこは「大人になる」べきところだったと思う。

既にお気づきかも知れないけれど、本稿の上で「いいひと。」を入れたのは少し毒を含んでいる。

当初は原作者・高橋しんが「原作」としてエンディングのスタッフロールでテロップされていたが、原作者が要求した内容が守られなかったために「原案」に変更された。

Wikipedia「いいひと。」より引用

この作品は20世紀末のものである。すでに四半世紀も前から似たようなことが起こっていた。ドラマ化は関西テレビの企画・制作でフジテレビ系列で放送されており、日テレ系ではない。でも、日テレは「他山の石」も「温故知新」も知らなかったようで残念としか言いようがない。

むしろ、原作の使用許諾をするならば、このような身ぐるみ剥がれる思いをすることを覚悟すべきと考えた方が、分かりやすいのではないか。シンプルにそう思っている。後は、それでも構わないと思えるか否かであろう。

お読み頂き、ありがとうございました。

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