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家の手伝いと学校の清掃が原因かと思うこと

今日は家族でスーパーまで買い物に行ってきました。娘は好きなお菓子を買うことができてご満悦です。昼は袋ラーメンを一緒に食べました。ささやかな幸せです。

さて、……。

日本人は忍耐強く、勤勉——
世界の方からそう言われることが多いし、私たち自身の多くもそう思っている。

でも、なぜそうなったのだろうか。

江戸時代の五人組制度でお互いに監視の目の役を果たしつつ、各種作業を一緒にやってきたため、手を抜くことができずそれが習性になった。
或いは富国強兵政策の名の下に制定された各種学校で、集団で行動し国のために熱心に働くことが当たり前になった。

……等などいろいろと考えてはみたものの、さすがに戦後80年近く経ってそれらが残っている、というのもちょっと無理があるように考える。

それでも、低賃金・長時間労働に甘んじて最悪過労死するようなことも現実に起こっている。過労死は実は日本固有のものでもないのだけど、KaroshiがTsunamiと同様に海外に通じる日本語由来の用語になっているのはありがたくない。

この労働における過度の控えめ具合の原因について、もしかしたらと考えていることが2つある。学校の清掃と家の手伝いである。

学校の清掃は無償労働である。学び舎を綺麗にするという大義名分はあるものの、だから無償でよい理由はハッキリしない。しかしながら、それは学校制度自体に内在する問題で私たちでどうにかできるものではないのが残念。

しかし、家の手伝いは違う。あなたにお子さんがいる場合、家のことを手伝わせているだろうか。

もちろん、手伝わせていること自体に問題はない。しかし、その行為に対して何らかの対価を支払っているだろうか。

「家の手伝いくらい、するのが当たり前だ」という価値観。私も完全に排除できてはいないのだけど、これって学校の清掃と同じく無償労働の強制ではないかと疑うようになってからは、それを避けるようにしている。

働くことに対して対価をもらう。これって私たちが社会に出れば当たり前とされるのに、小さい頃から無償労働が当たり前だと思わされるとしたらどうだろう。就職しても常に無報酬で働くようにはならないまでも、多少は自分が損をかぶってもしょうがないというマインドセットになってしまう可能性は十分にある。

その結果、本来正当に要求できることにもためらいを感じてしまう。例えば、有給休暇の取得も正当な権利であるが、もしかしてあなたは、休み明けに「お休みを頂いてしまってすいませんでした」と言ったりしていないだろうか。

あなたがそうでなくても、周りでそういう趣旨のことを言ってしまう人っていると思う。このような意識の中では、サービス残業、低賃金、過労死を招きやすくなるようになることについて、もっと意識されるべきだと考えている。

学校の先生は「教え子を再び戦場に送るな」と言いつつ、「社畜」を育む教育をしていることを理解しているのだろうか。せめて私たちは、家庭の中でそれを更に強化しかねないことをやめるべきだと考える。

お読み頂き、ありがとうございました。

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