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人としての矜持、情、美学を持つことを教える言霊信仰

朝は結構涼しかったものの、昼には気温もかなり上がりました。空模様は曇りがちでしたけど、予報にあった雷雨に遭うことはなく無事に家に帰り着くことができました。そうそう雷雨に祟られたくはないですよね。

さて、……。

今回は標題について考えてみたい。取りあえず以下の通り私なりに定義する。

矜持:自分の能力を信じていだく誇り。プライド。
情:人間の心のはたらき。こころ。きもち。意地。
美学:美の本質・原理などを研究する学問が発端だけど、一般には人としての美学という表現が多い。この場合においては、個人の道徳や美的感覚に基づく生き様。

昨今の世相を見ると、この3つが欠けているとつくづく感じる。

もちろんこの3つは、いずれも人の内面にあるもの。よって、外から見て判断することはできない。

でも、内面にあるものも、その言動によって外に表れる。これはある意味とても怖いことではないか。

左系の人は、人権を声高に主張する。でも、自分と異なる意見を述べる人の人権に対するふるまいはどうだろうか。ぶっちゃけ、その人格を否定するかのような物言いをすることが少なくないと思っている。

そういう物言いをした瞬間に、自身の主張する人権の普遍性が失われて、単なる依怙贔屓に堕してしまうことになるように感じてしまうのだけど、あなたはどうだろうか。

右系の人は、個よりも集団の利益を主張する。家族の相互扶助はまさに集団にとって最適な選択肢となる。そのため、個人の権利主張については抑制気味になる。

私自身は極めてニュートラルだと自分では思っている。まず、人格非難は人としての振る舞いとしては不適切であり、あくまでも行為を非難するべきだと考える。

よく「罪を憎んで人を憎まず」と言うではないか。この言葉には、人そのものを非難すると自身の人格も問われることに繋がり、かえって損をするという警告も含まれているように感じる。

また、個体としては弱い人間という生き物は、集団生活をすることで野生の動物と対峙し、身を守ってきた。だから、集団の利益を全く考えない言動はできるだけ避けるべきだと思う気持ちもある。

だけど、今は万物の霊長としてあらゆる動物より力を持つ存在となった。そういう中で個人としての思いを押さえつける必要性は薄らいでいる。少なくとも、集団のために個を圧殺するのは行き過ぎであろう。だから、思いは表現してよいはず。

ただ、いずれの場合であっても、発する言葉は選ばねばならない。わざわざ攻撃的な言葉を選ぶ必要もなかろう。

そもそも、日本には言霊信仰があった。言葉には魂が宿り、それが力を持って世に現れるという考えである。美しい言霊は世に益するものとなり、逆に悪い言霊は世に害悪を招来するとされる。よって、人は美しい言葉を使うべしとなる。

もちろん、これは何ら科学的な根拠を持たない。オカルトの世界に近くなるので、少なくとも現代では真顔で主張すると精神の正常性を問われることになってしまう。

それでも、美しい言葉には人を動かす力があるのは確か。一方で、悪い言葉には人に不快感や忌避感を生じる力があり、それを発すると自らの意図したことへの賛同者が減ってしまう。

言霊信仰って、そういうことを婉曲に伝える日本人の知恵なのかも知れない。

「人の悪口を言うとお口が腐りますよ」というしつけの言葉も、恐らくはこれと同じ流れに沿うものだろう。

でも、今ではそういうしつけが廃れている。それがために世間が殺伐としてきた、と言うのは言い過ぎだろうか。私的には、当たらずといえども遠からずといったところだと思っている。

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