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広島の原爆忌の日に始まった今年の夏の甲子園で気付いたこと

今日は、いつもよりは涼しい、でも、室内でジッとしていてもじんわりと汗が染みてくるような一日でした。我が家の電気代には、少し貢献してくれたものと思います。

さて、……

今日は広島の77回目の原爆忌であった。原爆忌については、昨年も取りあげている。

思いは1年経っても変わらない。強いて言えば、1年前よりも核戦争が現実味を増している。それは予想できなかった一方、このような状況に至っていることを心から残念に思う。

日本の場合、マスコミの自主規制により残虐なシーンが報道されない傾向が強い。そのことが、国内において原爆や戦争の悲惨さの伝承をより難しくしている面があるとは思っている。

海外の場合、意外とそのあたりはドライで、戦場や被災地での死体もそのまま映していて驚くことがある。でも、戦争や災害の悲惨さを直接伝えるものになることは間違いない。

映像を自主規制するのであれば、規制をかけた分を他の何らかの手段で代替するのが本来あるべき姿だと思う。しかし、ただセンセーショナルなものにしてはならないのは認識しており、言うは安く行うは難きだと感じる。

そして今日は、夏の甲子園の開会式が行われた。それほど高校野球好きではないのだけど、各地の予選を勝ち抜き、甲子園出場という大きな目標の1つを達成した選手達に、心からお祝いを申し上げたい。

スポーツも、本来は人間の闘争本能を充足させる代替手段としての側面がる。お互いがルールを定めた中で競争することにより、できるだけ生命や身体を害しないようにした一方、やはり戦いであるからには勝ち負けも存在する。

よく「スポーツでの戦いは良いけれど、本当の戦いはゴメンだ」との主張がなされる。これは、本当の戦いとはならないようにスポーツという形を整えたという点から見れば、至極当たり前のことを言っているように思う。

ただ、人間の持つ闘争本能そのものをどう捉えるのかは、あいまいにされたままである点は指摘しておきたい。私自身は、闘争本能は人間の持って生まれた性質の1つで存在するのが自然な姿。故にそれ自体は是非を云々しても意味がなく、存在を受け止めるしかないことに気付いた。

なお、闘争本能をルールのある競争という形に変えたのは、スポーツ以外にもたくさんある。受験も会社経営も皆そうだと考える。核の使用についてもさまざまな取り決めが提案されているが、これもルール化の一環である。但し、奏功していないのが残念である。

本来は「目指すべきは社会の発展、人々の幸せに貢献」との崇高な思いに基づいた行動が美しいのだろうけれど、現実的にそれは難しい。やはり競争とその背後の闘争本能によって社会が発展しているケースが多いことを認識しなければならない。

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