文系の学問は科学的ではなくても必要だと考える理由
今日は雨がちでした。幸い気温も低めではありましたがその分湿度が半端なく高く、部屋の窓を閉めていると蒸し蒸ししてかなり不快でした。
さて、……。
今回のテーマを考え始める前提として、科学についての定義は文部科学省のサイトをお借りすることにした。それは以下の通り。
これに従うと、文系の学問は少なくとも狭義の科学には含まれないことになる。科学的であるためには、いつ・どこで・誰がやったとしても同じ結果にたどり着く再現性、原因と結果の関係がキチンと存在する因果関係、そしてそれを客観的に説明できる論理性が揃う必要があると私は理解している。
かつて世の注目を集めたSTAP細胞は再現性がなかった。よってその存在は科学的に否定された。また、落ちるリンゴは多くの人が見てきたが、万有引力の法則にまで高めて論理的に説明しきったニュートンは、やはり科学者と呼ばれるに相応しい。
このようなことをなぜ考えたのかというと、「文系は科学じゃない」というXのポストを読んだから。でも、社会科学は文系だよなあと思いつつ、それ以外の文・法・経済・商等について、科学という言葉をあまり聞いたことがないのも確か。
文系の学問でも、例えば心理学においては実験を行うことがある。実際、私はビデオを見る前と見た後でけん玉の成功率が上がるかという実験の被験者になったことがある。ただ、残念なことに私は全く成功率が変わらなかった。
文系の学問は、個人差はありつつも全体の傾向としてはこうなる方向で動く、という結論までは持ってゆける。逆に言えば、厳密な再現性は期待できない。これが科学とは一線を画すところかと思っている。
また法学では「大前提・小前提・当てはめ」という法的三段論法が重視される。この大前提とは規範定立であり、いつ・どこで・誰がやったかは関係なく多くの人が認める価値観を論理的に詰めて守るべき規範として立ち上げるもの。
個別に起きた事案がこの規範に当てはまるものかも別途詰めて検討し、当てはまるのであれば、この規範にそって事案における行為者の行動を評価する、という手順を踏む。
ただ、これも法律の解釈と事案の個別性により影響を受ける。朝ドラ「虎に翼」ではまさに最終週において判例変更が行われようとしているが、このように結論が変わるものは科学とは言えない。
経済学も同様で、昭和初期の世界恐慌で大損をした経済学者がいたことを揶揄される。経済の専門家でも先の見通しは立てられないということは、やはり科学であるとは言いがたい。
とは言え、文系の学問は不要かと問われたらそれは違う。社会で起こるさまざまな営みの解明は必要だし、先にも述べた通り個体差はあるとしても全体の傾向を踏まえ、それに沿ったアプローチを行うことは、理解を得るためにも大切なこと。
科学ではないかも知れないが、そのことを以て無益だと判断するのであれば短絡的に過ぎるし、それは違うと申し上げたい。
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