人の群れの面倒くささに精力を吸い取られる前に割り切ることの大切さ
今日は基本的に曇天。暑くもならず助かりました。でも、その分洗濯物の乾きはイマイチ。そのため、夕方から室内に洗濯物が並ぶのは甘受せざるを得ないですよね。
さて、……。
人は社会的な生き物。ゆえに人嫌いで山奥に1人で住むような人を除けば、皆が社会の中で生きている。
そして社会の中で生きる限り、社会でどのような評価を受け、自身がどの程度の位置にいるのかは気になるもの。中には「そんなことは気にしない」という方もおられるとは思う。でも、そうは言っても、完全に無視できる人はまずいないのではないか。
私はここのところこのnoteで数回選挙について記事を書いた。選挙ってよく考えてみれば、立候補者が「社会でどのような評価を受け、自身がどの程度の位置にいるのか」を明々白々と晒されることになる。
これ、自分だけがコッソリ知るのではなく満天下に周知されることになる。そうであれば、かなりのプレッシャーだと考える。
選挙は数値で示される極端な例かも知れない。それでも、一般人である私たちも周囲の方の評判やもっと広い範囲での風評を意識し、それを何とか維持し、できれば向上させようとしている。これは社会性を持つ人間の性だと捉えている。
自分を取り巻く周囲も多様な存在。隣近所は言うに及ばず、ママ友やPTA、その他習い事や地域活動のグループ等、実にさまざまである。
これらの一つひとつにコミュニティは存在し、それぞれにおいて自身の社会性は必要となる。なお、これらの各コミュニティの中で一つでも気を抜くと、その評価が回り回ることがある。結果的に社会の中で地位のダウンに繋がることがある。
だから常に振る舞いを自制することになるのだけど、これはそれなりに負荷もかかる。素の自分、地の私を出せないことがストレスになってしまう。
さすがに全てのコミュニティで「素の自分、地の私」を出す勇気は持てない。またそれを出せる関係は一朝一夕には作れない。これは家族であっても難しいことがある。
このように考えると、人の群れの中で生きながら自由に振る舞い、かつそれが周囲に受け入れられている人ってそうそういないのではなかろうか。
そして私たちは、山奥に1人で住んだりすることもなく負荷を感じながら人の群れに混じって生きている。負荷を面倒だと思っても、そうするしかないのであればあまりそのことで頭を悩ませる必要もないのではないか。
むしろ皆が大なり小なり感じている、即ち自分1人ではないと割り切り、全部に対応して疲れ切る必要はないといった割り切りもあってよいのではなかろうか。
人間関係に疲れて週末を迎え、ちょっとナイーブなことを考えてしまった。
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