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世間様が見ている。

こんにちは、リクです。


音声入力で記事を書き始めて4日目になります。


何とか続いております。笑


先日の記事で宗教の事について少し触れさせてもらいました。


私が10代の時に、通っていた予備校の先生が日本人における宗教についてしてくれた話があります。

それがすごく印象に残っていて、今でも自分にとっての宗教観を考えるときによく参考にさせてもらっています。


その時の話というのが、

海外の人にとっての宗教と言うものは、日本人にとっては世間というものに置き換えるとわかりやすい。


と言うことでした。


例えば、自分がゴミを道路にポイ捨てするときのシチュエーションを想像します。

キリスト教徒の場合ポイ捨てをする事は神様が見ており神様の教えにそむくことになり申し訳なさを感じる。


対して日本人の場合、道路にゴミをポイ捨てをすると、世間に対して申し訳なさを感じる。


同じ申し訳なさを感じますが、申し訳なさを感じる対象が「神様」と「世間」と言う部分で違いが生まれるとの事でした。



この話を聞いたとき、私は18歳でしたが、すごく納得できるものがあったことを覚えています。


日本人の中で誰しもが持っているモラル、常識といったものが海外の人にとっては、聖典である聖書やコーランにあたるのだと感じました。


日本人は、正式に入居するわけでもなく各の心の中に自然と日本人としての聖典を作っているのです。

聖書やコーランと違って明確な形があるわけではなく、それぞれが不確定なものでありながら、ある程度共通したものを判断基準として作っていけることは、世界的にも道徳心が評価される日本人として胸を張っていい部分なのかなと思いました。


またその心の中の聖典は、時代とともに少しずつ変化していき、その時代に合ったものへ適合していきます。


その心の中の聖典が集まり、集合となったものが「世間」と言われるものになるのかなと感じています。


ここでいつも僕が思い浮かぶのが、芸能人のスキャンダルの際の記者会見です。あまり海外のセレブたちのスキャンダル時にこのような取材を見かけません。あのような記者会見は日本特有のものかなとも思います。(違ったらごめんなさい…)


あの記者会見は、スマイル「世間」様許しを乞うているのだと感じています。


海外でそのような光景を見ないのは、許しを乞う先が対象が世間ではないからなのかなと感じています。(もちろん全てではありませんが)


個人としては日本人は少し世間の目以外の価値の判断基準もあっても良いのではないかと最近感じております。


なんとなく漂う形のない「世間」の判断基準によって流されてしまっており、本当に自分が信じたい価値観での判断が行いにくい状態になってるのではないでしょうか。


とは言っても、長いものに巻かれることがほとんどな私です。笑

ではまた!


リク



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