無我になりたい

「#なりたい自分」というテーマで一本記事を書いてみようと思う。しかし、私は無我になりたい。

この文章は2つの意味で逆説的である。

一つ目は、なりたい自分というテーマなのに、自我がない「無我」を目指しているからである。

仏教の教えには四法印というものがあるが、そのうちの一つが「諸法無我」である。

ブッダが言うには、自我なんてものはない。あるように錯覚しているだけなのだ。

誰もが自分のアイデンティティの確立に悩むものだが、ブッダは自我なんてないと一喝した。

もう一つは、無我に「なりたい」と言っている点である。

「無我」と言うのは前述のとおり自我がない状態なので、「なりたい」と考えているのはおかしい。

無我は自我がないということに気づいて至るものであり、そもそもなりたいもの、もしくは願ってなるものではないからだ。

この2つの点を踏まえた上で、「無我になりたい」という矛盾したよくわからない記事を書いていこうと思う。

無我に至りたいと思った理由としては、苦しみをいかに取り除くかという問題に立ち向かった上での解決策の模索である。

人は誰しも欲望や怒り、誤った考えを持っている。

現代社会はそれらが増幅される仕組みがそこらじゅうに散りばめられていて、しかも見えにくい。

だからこそ最近では「生きづらい」と嘆く人がごまんといるが、それは突き詰めてみると「自我」の表れであるのかもしれない。

私自身も、自分の欲望や不安に駆られ、あくせくして生きていた時期がある。もちろん今でもそういった状態になることはあるが、早めに気づいてリセットする術をある程度身につけた。

それが、自分の気持ちや考えに気づき、「自我が強くなっている」と自覚することである。

よくアンガーマネジメントの方法として、怒りは6秒待てば収まるとか、怒っている自分を俯瞰してみるという手法がある。

それを怒りだけではなく、誤った考えや欲望が起こった場合にも適用する。ただただ、「普段の自分とはまた別の視点」を持つように心がけることで、無我にある程度気づくことができるのではないかと思う。


とはいえ、ブッダの時代と現代では状況がかなり違う。ブッダの時代にはグローバル社会も、ネットも、飛行機も株式会社もなかった。

もちろんブッダの教えが現代で全く役に立たないとまでは言い切れないし、学べることはたくさんあるが、当時との違いをある程度把握しておくことは必要だろう。

完全に無我に至るというのはおそらく現代社会では不可能に近い。でも無我を目指すという姿勢を続けることで、楽に生きることができるようになるのではないだろうか。

#なりたい自分

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