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みんなで文化を育むこと〜 カルチュラル・アントレプレナーシップを考える

先日投稿した文化は不要か 〜 「生きる」と文化を考えるでは、「文化は不要か」という問いを立て、穂村弘の「生きる」と「生きのびる」という考え方や國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を参照しながら文化の存在意義を考えてきた。

前回の流れを汲みながら、この記事では「ぼくらは文化に対してどのように振る舞うべきか」について考えたい。それを明らかにした上で、最後にぼくが今後取り組むデザイン活動の指針について表明する。

まずその表明の土台として、「文化と時間」「文化と経済」「文化とファン」「文化と個人」の順で、文化を多面的に紐解いてみる。

[文化と時間] Cultureは耕すこと

文化と一口に言っても、さまざまな領域や意味を示す。文化とは何か、その言葉の語源から性質を探る。

Oxford Dictionary of Englishによると、文化を意味する"culture"の語源はラテン語の"colere"に由来する。元々「土を耕す」という意味で使われていた言葉が、"culture"や"cultivation"と英語になる過程で耕す対象を精神性や知性、マナーや教養と広げてきたらしい。

ここに文化の重要な側面が垣間見える。文化は耕す行為の集積と言える。「採取」でも「生産」でもなく「耕作」。文化は一朝一夕では成り立たない。作家に影響を与える教育や環境などの土壌があって、作家が作品を世に出して、作品がまた他の作家に影響を与え、新たな作品への繋がる。そうやって文化は耕される。もちろん人や作品だけではない。社会情勢や教育システム、経済、概念と複雑に絡み合いながら、文化は育まれる。

ぼくらがいま触れている文化は、過去の積み重ねが現代の空気に触れて、あるいは作家のフィルターを通して発露したものだ。

ある音楽評論家は「ポップカルチャーは引用と参照の産物」だと言う。

例えば現在の邦楽シーンに大きな影響を与えているASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文は、oasisの「Live Forever」について「この曲に出会わなければ、ミュージシャンになっていなかった」と語っており、ギタリストの喜多建介は楽曲「E」の中で「Live Forever」のリフをオマージュしたことを明かしている

さらには、映画『スター・ウォーズ』が黒澤明の作品に影響を受けてつくられたことも広く知られている。

文化を語るとき、過去の蓄積が滲んだ痕跡、あるいは未来や他者(社会)に及ぼしうる影響を無視することはできないのだ。

[文化と経済] 文化はどのように生きのびるのか

文化が長い時間を経て成熟するものだとしたら、その間文化を経済的に支えるものは何なのだろう。もちろん文化そのものに支払われる対価がある。文学作品を購入したり、映画を鑑賞したり、ライブハウスに行ったり。現行のエコシステムの中で、文化事業者とステークホルダーの生活が支えられてきた。

だがしかし、現在文化事業は苦境に立たされている。新型コロナウイルスによって人が集まれなくなったことで、映画館やライブハウス、劇場などスペースを運営している人に大打撃が生じている。またこのスペースで運営されてきたイベントで生計を立ててきた方々も同時に、食い口を失ってしまっている。当初文化事業者に対する行政からの補償はなく、 #SaveOurSpace をはじめ、#SaveTheCinema, #SaveOurLifeなど、営業停止せざるを得ない文化事業者への助成を求める活動が始まった(個人的にはこれらの活動を圧倒的に支持している)。

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文化は不要か」記事で述べたように、文化事業によって生計を立てている人を除いて、文化は「生きのびる」ためには不要なものなのかもしれない。文化の欠落によって人間に与えられるダメージは可視化されないのだ。ある文化が危機に晒されていたとしても、あるいは豊かさが失われていたとしても、その危機感はよほどその文化領域に関心の強い人でなければ共有できないだろう。#SaveOurSpace を筆頭とした活動がこれだけ盛り上がっている(訴える必要がある)状態が、その分断を逆説的に表しているとも言える。

文化は「生きのびる」ために必要がないということ、そして現在これだけ文化が苦境に立たされている状況を見ると、ルネサンス期に芸術家にパトロンという存在が必要だったことに合点がいく。パトロンは、芸術が経済的な成功を過度に求めることにより、文化的豊かさを損なう罠から解放した意味で重要な役割を担ったのではないか。

文化は不要か」記事で示した「生きる」価値観や「うちで踊ろう」の多様でパーソナルな表現の肯定を文化的豊かさだと仮定する。映画『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督が、アカデミー賞の授賞式で引用したマーティン・スコセッシの「The most personal is the most creative.(最も個人的なことが最も創造的なことである)」というフレーズも、同じことを言わんとする言葉だろう。

そしてその「文化的豊かさ」は必ずしも「経済的豊かさ」につながらない。例えば過去に日本で経済的に成功した音楽の事例を思い返してみたときに、CDに握手券や投票券などの意味付けをして大量購入(大量廃棄)されたケースが思い出されるが、これらは文化的豊かさの物差しで見るとどうなのだろうか。むしろ文化的豊かさと経済的豊かさの共存はかなり難易度が高いのかもしれないと思ってしまう。

これらの歴史を踏まえても、文化的豊かさを保つために芸術家や文化事業者を支援する流れはあって然るべきだと思う。文化事業者への助成や補償に関して、立憲民主党主催のライブ配信で劇作家の平田オリザはこのように述べている。

フランスには芸術家への年金制度がある。彼らが国をあげて芸術家を支援できるのは、才能のある芸術家が経済的な理由で別領域に行ってしまうことが国益を損ねるというコンセンサスがある。

またドイツのグリュッタース文化大臣による芸術家支援策とステートメントの表明はセンセーショナルに映った。ドイツでも同様のコンセンサスが国全体で得られているのだろうが、これらも文化と同じく一朝一夕で成り立つものではない。長い時間をかけて、現在日本で起きているような署名や議論の先に獲得した価値観なのだろう。羨望も相まってか豊かな文化的土壌のお手本のように見えてしまう。

まとめると、文化を健全に育む土壌をつくるためには、文化を取り巻く経済的エコシステムはもとより、行政の文化芸術に対する姿勢や政策、またその行政の意思決定を支える全体のコンセンサスが重要だと言える。

文化が多様で豊かに成熟する土壌は、一人ひとりによって育まれるはずだ。

[文化とファン] 受け手が耕す文化の土壌

では受け手一人ひとりは、作家や環境に対してどのように振る舞うことで文化の豊かさに寄与できるのだろうか。もちろん、すべての個人は作品を自由に受け取るべきだし、それを社会が規定するような不自由なことはすべきではない。自由意志によって作品に触れ、解釈し、反応できることも、豊かさの一つと言える。

その上で『パラサイト 半地下の家族』アカデミー賞授賞式のことを思い出したい。2020年のアカデミー賞にて、外国映画として初めて作品賞を受賞する快挙を成し遂げ、日本でも大きな話題になった。ここで取り上げたいのは同作の配給会社副社長のミキー・リーのコメントだ。

「特に感謝したいのは、韓国映画のオーディエンスと、熱狂的な韓国映画ファンです。いつも私たちの作品を応援してくれて、映画についてどう思ったか『正直に』意見を伝えることも躊躇しませんでしたね」

「そうした声が監督や製作陣を常に後押ししてくれました。あなた達なしに、韓国の映画ファンなしに私たちはこの場に立つことはできなかったでしょう」

当然、同作の受賞はスタッフの努力や韓国の文化政策など総力による結果だあるが、このスピーチは受け手のあり方に対してとても示唆的だと感じた。

ファンは作家や作品に対して肯定的になることは自然だと思うが、果たしてそれだけでよいのだろうか。

ファンカルチャーと批評文化については、ここ数年で議論が加速している。記憶に新しいのは昨年のPitchforkとR&Bシンガー・リゾの一件。Pitchforkでの批評に対して、その批評の対象であったリゾとそのファンが激しく抗議、殺害予告まで起きる象徴的な事件となった。

SNSによって個人の意見が可視化されやすくなり、ファンの持つ力は増強しているように見える。一方で、肯定することだけが文化的豊かさに繋がるわけではないことは常に意識しておきたい。重要なことは、個々人が自律的に判断することだ。上に挙げた『パラサイト 半地下の家族』の例は、受け手がリテラシーを持つことが、作品のクオリティに寄与する象徴的なスピーチだった。

優れた作品は優れた土壌から生まれる。その土壌は作家や文化事業者だけでなく、受け手一人ひとりが個人の行動や発言によって耕すことができる。

Spotifyの代わり映えしない国内チャートを見て嘆くことをやめて、そこから抜け出すために社会としてどのような変化が必要か、そのために自分に何ができるのか考えるべきだ、と自戒を込めて思う。

[文化と個人1] 一人の力とムーブメント

政治や経済システムなど大きなものと対峙したとき、自分が何か行動したところでどれだけの影響を与えられるか、と思う。誰しも経験がある悩みかもしれない。その悩みを解決に導くことができそうなエピソードが『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』の中で語られている。

政治哲学者のマイケル・ハートは哲学者の斎藤幸平との対談の中で、アメリカ大統領選挙でトランプに対抗する存在として登場したバーニー・サンダースについて言及した。サンダース旋風はサンダース本人がカリスマ的な政治家だったから起きたブームではない。ブームはウォール街占拠運動という社会運動を支えた人々の渇望によって生まれ、人々が自らの要求を表現する際の手段がサンダースだった、と述べている。

サンダースの声には、ブラック・ライヴス・マター、ブロケディア(パイプライン建設に反対する環境運動)やオキュパイ・スチューデント・ローン(学生ローンのボイコット運動)などさまざまな運動体の主張が流れ込んでいた。

社会運動のようなボトムアップの、小さくとも誰かがあげた声の集合体が、近年欧米で力を発揮しているリーダーの背後にはあったのだ。

社会運動というと、距離を感じてしまう人も多いかもしれないが、状況や問題に対して、目に見える形で行動し、社会や政府に訴えることである。デモ行進や集会などが想起されやすいが、署名活動やSNSでのハッシュタグツイートだって社会運動として機能する。オンラインでは、それが小さく弱くとも上げた声は一つの声として可視化される。

SNSで怒りの表明が相次ぐとき、それは「炎上」として消費されたり、避けられたりすることもあるが、変化を望むならそれを訴え、行動することは自然だ。

政治や経済システムなど大きなものと対峙したとき、自分ができる範囲で、行動や発言をすることは確実に意味を持つ。文化の助成や補償を求める #SaveOurSpace の運動も同じく意味を持つ。実際に、文化事業者への対応について超党派で検討する動きに繋がっている。

少し政治的な話が続いたが、一人ひとりが与える影響に自覚的になり、意思を持って行動することは、文化の多様性を守る上で改めて重要性を増している。

[文化と個人2] 買い物は投票であり、消費者は文化のパトロンである

今年の1月に「ぼくらは『文化のパトロン』になる」という記事を読んだ。とある書店員の方が働かれていた書店が閉店する際に書かれた記事だ。

お金には
「自分が欲しいモノやサービスとの引換券」
の機能の他に
「渡した相手を生き延びさせる投票券」
としての機能もあります

つまり、買う/支払うという行為は
自分と相手、双方にとっての意味があります

これから多くのものが小規模になる…
とするなら、僕らの意識や役割は
次のように、変わることになります

それは、

『文化のフリーライダー』(タダ乗り)から
【文化のパトロン】(支える人)へつまり、支える人が
お金で投票したところだけしか、
残らないということです

個人的には深く共感できる記事だった。グローバル巨大企業があらゆるタッチポイントでサービスを提供し、プラットフォームビジネスが隆興する時代だからこそ、消費者のマジョリティは安くて便利な方を選択する。

この状況では、スモールビジネスは誰かが意思を持ってお金を払わない限り縮小してしまうのだ。ライブハウスではお酒を飲む、映画館ではドリンクを持ち込まずにフードドリンクコーナーでポップコーンなりを買う、本は本屋で買う、お弁当は個人経営の飲食店でテイクアウト、などなど個人の選択によって文化事業やスモールビジネスを支える方法はいくらでもある。もちろんプラットフォームを利用することを否定しているわけではないし、これらは強制されるものではない。自由意志だ。ただ上の記事でも書かれているとおり、個人の意思があるなら表明しないと、大きな力によって世の中は動いてしまう。

意思を持って発言すること、行動すること、署名すること、消費すること。

文化に対して、個人が意思を持って行動することが、文化を守り、土壌を耕す一歩になる。

文化的な自律とカルチュラル・アントレプレナーシップ

これまで書いてきたことを踏まえて、今後は一人ひとりが文化的に自律することがより大きな意味を持ってくると確信している。文化を守ること、耕すことを文化事業者だけのものにせず、受け手を含むすべての個人の自律によって取り組むことで、日本の文化はもっと豊かになる。

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理想論ばかりを語っていても仕方がないので、自分がこれから取り組むことも表明しておきたい。

キーワードは「カルチュラル・アントレプレナーシップ」

「文化的起業家精神」と直訳できるこの概念は、

1. 文化芸術の振興
2. 経営的な持続可能性

これらの両立を志向する姿勢を意味する。

スタンフォード大学の社会事業や慈善事業の情報を発信するStanford Social Innovation Reviewの記事によると、カルチュラル・アントレプレナーシップはソーシャル・アントレプレナーシップのサブカテゴリに位置付けらる。ソーシャル・アントレプレナーは格差や貧困、環境問題などの社会課題の解決・改善につながる事業を志向する起業家を示す。その社会課題の中に「文化芸術の振興」が含まれることもあるが、カルチュラル・アントレプレナーは社会的役割を再定義しようとする点、新たな振る舞い・態度を生もうとする点でソーシャル・アントレプレナーと区別される。

カルチュラル・アントレプレナーシップの解釈やグローバルでのトレンドについては別の機会に詳述するとして、この概念はぼくの中にあるデザインのモチベーションと深く共鳴する。

ぼくはUXデザイナーとして、これまでクライアントとともに新規事業の立ち上げやサービスの改善に従事してきた。当然、サステナブルな事業を立ち上げること、より高い利益が出るよう改善すること(上述 2. 経営的な持続可能性 )は常に重要なテーマとして取り組んできた。

これからはそれに加えて1. 文化芸術の振興 も視野に入れたデザイン活動に従事していきたい。そしてそれは単純に文化に関連する事業に取り組むことではなく、これまで書いてきたような「文化の豊かさ」に貢献したいという思いだ。

小さくてパーソナルで魅力的なビジネスを守ること、作り手・受け手問わず広く個人が文化的に自律しやすい環境やエコシステムをつくることに強いモチベーションを持っている。

[文化と経済] でも触れたが、文化的豊かさと経済的成功を両立させることの難易度は高いのかもしれない。しかし、だからこそチャレンジしたいという思いが強まるのも事実だ。

カルチュラル・アントレプレナーシップと名乗ってなくても、共鳴する事例はたくさんある。個人的に敬愛しているいくつかの事例を紹介したい。

閉店した映画館をリノベーションしてオルタナティブスペースとして運営する「元映画館」
街の映画館という文化的遺産(場所)を守っていること。そして映画館という特殊な性質を持った空間から、新たな価値や役割を見出そうとオープンに実験、探索している姿勢に、地域文化への貢献と創造性が見える。

街の本屋の新しいあり方を提案する、ビールが飲める本屋「B&B」
数ある書籍の中から一点ずつ選書された棚の中から、一冊の本に偶然であってしまう体験はデジタルでは代替できない。B&Bのパーソナリティを感じる選書とドリンクが飲める本屋というカルチャーからは、街の本屋の新たな可能性を感じる。

それぞれの暮らしを持ち寄れる場「小杉湯となり」
高円寺の人気銭湯・小杉湯の隣にあった風呂なしアパートを改築してできた複合施設。街の人が集まる憩いの場である銭湯の隣に、多様な利用者を受け入れるオープンな居場所。2020年3月オープンのためまだ行ったことはないが、街で暮らす人の距離をぐっと近づけるシンボルのように愛される予感(かつて高円寺に住んでいた一人としても応援)。

上にあげた例はほんの一部だが、カルチュラル・アントレプレナーシップを具している事業やスタートアップは多くある。まだ世に出ていない事業やアイデアを持った起業家もたくさんいることだろう。

このような文化的な場所やアイデアは引き続き敬愛しつつ、これからはぼく自身もデザインワークの中で取り組んでいく。この概念取り組みに興味を持ってくださった方、共感いただけた方はぜひご連絡いただきたい。そしてもっと文化の話をしたい。きっとこの概念に共感してくれる人はたくさんいるんじゃないかと思う。どのような関わり方ができるか相談しつつ、ぜひ文化に貢献できる方法をともに探りたい。

最後に

今回文化は不要か 〜 「生きる」と文化を考えるとこの記事を書いて感じたことだが、考え方も参照先の解釈もブラッシュアップの余地に溢れているし、いまのぼくには見えていないことが多分にある。建設的な異論は歓迎するし、助言もいただけるとありがたい。また繰り返しになるがここで書いたことに共鳴してくれる人は、ぜひ声をかけてほしい。

読んでくださった方々の力を借り、引き続きこの考えをアップデートしながら、文化に貢献できることを始めていきたいと思う。

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