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answer・何故私を産んだの?

人は誰でも何らかの形で性を受けこの世界に産み落とされる、ないし腹を切られて持ち上げられ産声を上げ、この世界に生まれてくる。

生まれてくるまでの間に、赤子を産み出した人間2人は「子供を産むか、産まないか」などを考えたり、はたまた愛の結晶のように、まるで副産物のように生まれてくる赤子もいるだろう。さらには産みたくてもなかなか妊娠をせず、藁に縋る想いで妊娠を経て授かった命である可能性だってある。

私達人間は思春期を超えたあたりから、そのような人類的責任を突如として与えられるように思うが、自分自身を出現させた両親に対しこのように思ったことはないだろうか?

何故、自分を産んだのか?

これは何歳頃に出現した疑問なのかにより解釈がだいぶ変わると思うが、私がこれを思ったのは中学高校あたりの思春期真っ只中のことであった。

自分自身のアイデンティティ、コンプレックス、両親の嫌悪感、存在意義、生きていても何もないという暫定的で短絡的な思想

何故私を産んだのか?と子供に言われた男女2名は、何を思ったのだろうか。殆どの人間たちは、その意味を考えずに子供を産むことになる。(産む場合)何も考えていない中そのような事を質問されたら、殆どの場合、感情を除いた発言はなかなか難しいと思われる。(なんでそんなこと言うの!と癇癪を起こしたり、涙を流したり、あなたに会いたかったからだよ、などと言う)

生きる意味がない場合
人は自殺する時がある
しかし
生み出すときの意味を
何故 考えないのだろうか

ふと、部屋にしなやかな形で佇んでいるオリーブの木を眺めていると、宇宙のような壮大な疑問が湧き上がってきた。

何に関しても目的が必要なのである。目的というのは生まれてきたら自由に選択して実行して良いことになっていると思われるが、人によっては親から与えられた使命を尽くすために生きている人だって居ると思われる。そう言う場合は、親に見捨てられると存在意義的に死ぬことになるかもしれない。

私は比較的自由に生きさせてもらった。自由とは宇宙である。放任とは大変素晴らしいが、目的を持つことがかなり、難しい。人生の目的は常によくわからず、時折鬱状態になり首を吊ったり仕事を突然辞めたり死んだふりをしたりする事があった。(最近は目的こそこれと言ってないものの哲学する事が好きな事を思い出し、今に至る) 

つまりは自由すぎる状態で能力を高めない状態が続くと、宇宙貢献していないように感じで存在意義が分からなくなるのである。

こんな時、朗報である。
親に守られれば生きているだけで、目的達成なのである(これが自宅警備員ニートという形態を安定化させることに繋がるのではないかとも思う)

自宅警備員ニートの子供に、何故自分を産んだのかと聞かれたとして、愛の溢れる回答をすれば、子供は満足がいって一生自宅警備員ニートになるのではないだろうか?知らんけど

一生一緒にいる覚悟と、最悪自死される覚悟、全ての覚悟をしない限り本来子供を産めないのではないか?知らんけど

何故私を産んだのかと訊かれたら、私ならこう答える事にした「すべての覚悟が出来たから」

いや待てよ、目の前で自分の子供が死にたいと言って来たらと考えると、上記の答えはまた別になる

思想は果てしなく続く.....


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