映画『望み』

〈出演〉
堤真一&石田ゆり子、清原果耶、岡田健史。
〈粗筋〉
怪我によりスポーツをやっていく夢を絶たれたのを機に、親と口を聞かなくなった、高校生の息子。
同級生同士の喧嘩で、その友人が亡くなったとニュースが。息子は加害者だと思われていたが、遺体が発見され、被害者であったことが判明した。

一番印象的だったのは、
母親演じる石田ゆり子の
「私は言っていた通り、息子が加害者であれば良いと願っていた。
そうすれば、息子は生きて帰っては来てくれるから。何度同じ目に遭っても、私はそう願うでしょう。
けれど、加害者だった時、その一瞬は良かったと思うでしょうが、それからはまた大きな苦労が待っているのです。恐らく、それには耐えられなかったでしょう。」
という言葉。

被害者だった場合、加害者家族のそれとは異なり、冷たい言い方をすれば、遺族の今後の人生は社会的には大きく変わらない。
きっと私も被害者であればいいと願っただろうと思う。これはほぼ確信を持って。
自分の人生が大きく狂ってしまう時、その原因を作った人に、例え家族であれ、優しく接し続けることは私には出来ないだろうと思う。残念だが、自分の優しさを信じる限界を感じざるを得ない。
人間は死ぬことにより、美化される一面がある。
その点からも、お互いのために、被害者側で、死んでいてくれればいいと望むだろう。
母親となれば、「加害者だっていい!生きていて欲しい!」とまで願えるものだろうか。

『望み』というタイトル…
劇中、このワードは出てこないのだ。
誰のどんな望みがあったのだろう。

望み
父親の望み。ここでは、特に加害者であればいい被害者であればいいといった思いは描かれていない。ただ、漠然と何かを信じているという描き方。男親とはこういうものだろうか。

望み
母親の望み。上記述べたように、「加害者であればいい」と明言している。

望み
妹の望み。同じく、こちらは「被害者であればいい」と明言している。

望み
この一家を取材する記者の望み。最後に明かされる。
「僕は加害者であればいいと思ってました」と。

加害者か被害者か…
高校生同士の喧嘩の延長だとすれば、恐らく加害者か被害者かはほんの紙一重だったろうと考えられる。何か小さなきっかけで、加害者と被害者が入れ替わっていた可能性は大きくある。しかし、結果が全て。こちらは被害者で、あちらは加害者。それぞれの人生を歩まなくてはならない。

何か大きな出来事を目の前にした時にも、人は望みを抱く。
「本当は、真実は別にあるのではないか」
「せめて~であればいいのに」
「何かの間違いであって欲しい」
とか。決してポジティブな物だけとは限らない。
そして、どんな状況にも望みがなければ、生きてはいけない。

例え家族と言えど、平常時にはどれだけ絆が強くとも、大きな特に不幸なイベントがあった際には、どうすることも出来ない方向性の違いが露呈する。「誰も悪くないのに!何故!」そう思わざるを得ないこともある。
けれど、その違いを共有できるだけでも、家族というものには意味があると考えれば良いのか。


監督が込めた『望み』というタイトルへの思いに近いかどうかは分からないが。

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