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「永く、活きる」尾張屋本店@神田 田中秀樹さん(昭51営)

「鶴は千年亀は万年」という言葉がある。もちろん、実際に鶴や亀が1000年以上も生きるわけではなく、“長寿の象徴”としての鶴と亀にリスペクトの意を表した故事成語である。

ところで、飲食店の「平均寿命」をご存じだろうか。

 正確には平均寿命でなく「10年生存率」なのだが、なんと1割程度と言われている。多くの店が10年と持たずに閉業する中、大正十二年より一世紀以上に渡って営業を続けている、まさに飲食店の鶴亀とも言うべきお店が今回紹介する「尾張屋」である。
 尾張屋本店は、現店主の田中秀樹さん(S51経営学科卒)の祖父が始めた蕎麦屋であり、神田ほか飯田橋の計4店舗にて営業を行っている。
祖父の代より百年にわたって受け継がれている尾張屋。その歴史を、田中さんの半生とともに紐解いていく。


―継承に至る道

 田中さんは中学受験を経て立教中学校に入学した。
受験の際、田中さんは立教のほかに明治大学付属中学校も志願しており、いずれも入学する権利を勝ち取っていた。どちらに進学しようかと迷っていたところ、「立教ファン」であった祖母と立教大学の校友である叔父の勧めで立教を選択した。
 ただし、明治大学卒で同大学の剣道部主将も務めていた尾張屋2代目の父からは「立教に進むならせめて剣道をやらないか?」と言われ、中学からは剣道に励んだ。

 中高大と10年間続けることになった剣道では、練習の成果もあり高校生の時にはインターハイ出場を経験するなど高いレベルで活躍していた。
また、剣道を続けていたこともあり、一時は「警察官」の道も身近にあったというが、最終的には大学卒業とともに実家でもある「尾張屋」を継ぐこととなる。
 祖父の代から続いている尾張屋は、田中さんにとって幼少期から身近な存在であり、加えて周囲からの期待も高く、自分は「蕎麦屋になるものだ」と思い、実際に跡を継ぐことについて抵抗はなかったそうだ。

 ただし、跡継ぎに関しては若干のタイムラグがあったという。
 というのも、田中さんは大学1年生の頃に2代目であるお父様を亡くしており、その後、田中さんが大学を卒業するまでの間はお母様が経営を行っていた。
 やがて田中さんが大学を卒業し、周囲からすれば待ち望まれた跡継ぎが行われ、複数の店を切り盛りする立場となったのだ。

―盗み、凝らし、説く

 創業者の血筋とはいえ、蕎麦作りに関して素人同然であった当初は周囲との軋轢も感じたという。

 仕事を覚えるだけで最低2年、一人前となるには5~10年はかかると言われている蕎麦の世界で田中さんは洗い物から修行を始めることとなる。
自分より経験のある職人から、見よう見まねで技を盗む。分からないことがあれば、普段は厳しい職人の口も、ふと軽くなるお酒の場で聞くなど工夫を凝らして技を身に着けた。
 そうした下積みを経て、確実に基本を固めていった田中さんは4つある営業店舗それぞれと真っ向から向き合い始めた。

 ただし、当初の系列店における規律や教育の水準は決して高いものとは言えず、蕎麦作り以前の問題であったともいう。
 そこで、田中さんはまず従業員の意識改革に取り組んだ。時間は確実に守ること。お客さんに誠心誠意向き合うこと。返事・挨拶をすること。徹底した基本の教育とともに、努力し続けることの重要性、与えた仕事を100%こなせばそれに見合った給与を約束することなどを丁寧に説いた。
 それは、田中さんが中高大と立教で過ごした剣道人生で得た教訓でもあった。
 特に「努力し続けることの重要性」について、田中さんは「兎と亀」の童話を例に出した。私たちの大多数は童話でいうところの「亀」であり、亀が兎に勝つ、あるいは同程度の成果を上げるには兎の倍頑張り続けるよりほかない、というものだ。

 冒頭で、「鶴は千年亀は万年」という故事成語を持ち出したが、まさしく己を「亀」であると自覚し、一生懸命努力し続けることこそ“1万年生きるコツ”なのかもしれない。
 こうした地道な教育の結果として店舗の売上はそれ以前に比べて2倍以上にもなり、周囲の田中さんを見る目も次第に変化していったという。

―全てはお客様のために

 売上を出す中で、田中さんが最も大切にしていることがある。
 それは、お客さんに「また来たい」と思ってもらうことだ。
 新米だった頃より一貫して大事にしているこの哲学を実現する為には常に「変化」することが求められるという。尾張屋における伝統の一例として、「蕎麦の打ち方」や「鰹節を使った出汁の取り方」などが挙げられる。そうした守るべき「こだわり」は意識したうえで、時代に合わせた変化を取り入れる。
 たとえば「蕎麦の太さをコンマ数ミリ単位で変えてみる」あるいは「出汁の質は変えないが、濃さを変えてみる」。伝統を大切にしながらも時代、流行、お客様の嗜好の変化に合わせて、提供するものを少しずつ変える。その一番の理由はやはり、お客様に「美味しかった」と言ってもらうためである。

 ただし、田中さんは美味しさを追求するうえでの「落とし穴」があるとも語る。
 美味しいものを提供することは当然大切だが、それが“目的”になってしまうと「自分にとっての美味しさ」と「お客様にとっての美味しさ」との間で温度差が生じてしまう。
 何よりもまず「お客様が満足して帰ること」を意識しているからこそ、お客様に焦点を当てた「美味しさ」を目指すことができ、だからこそ100年にわたってお客様に求められ続けているのだ。

 少しずつ変わっていく時代・お客様に合わせて自分たちも少しずつ変わっていく。あらゆる工程・仕事で手を抜くことなく丁寧に行い、誠心誠意お客様と接する。
 これこそが、尾張屋のDNAであり、伝統であるのだ。

―100年の先

 そんな尾張屋にも「ヒヤッ」とする瞬間はあったという――そう、コロナである。
 コロナ禍での営業制限の後、一度遠のいてしまったお客様の足が再び戻って来ることはあるのかという不安がずっとあったそうだ。
 しかし、そんな田中さんの心配をよそにコロナ明けの尾張屋はそれ以前と同じように多くのお客様で賑わっている。
 尾張屋が100年かけて築き上げてきた伝統や信頼の看板は、2~3年程度コロナによって揺らされはしても、落ちるものではないと証明されたのではないだろうか。

 最後に、田中さんの言葉で忘れられないのはこれだ。
「凛として生きたい」
 蕎麦屋には定年がないからこそ、何歳になっても凛とした新鮮な気持ちで張りのある生活ができているという。
「お客様がその日、満足して店を後にしたか」を生きがいとして気にかける田中さんは、既に尾張屋の次の100年にも目を向けていた。

(文:堀口絢哉/写真・長田海音)

田中秀樹さん(中央)、 学生カメラマン・長田海音さん(左)、学生ライター・堀口絢哉さん(右)

■店舗情報

 神田尾張屋 本店
  〒101-0041 東京都千代田区神田須田町1丁目24−7
   JR神田駅北口より徒歩2分

 <その他の店舗>
  ・富山町店
  ・飯田橋店
  ・飯田橋きしめん店

 ※最新情報は店舗HP等でご確認ください。