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権田酒造@熊谷 権田幸子さん(昭60独)

埼玉県熊谷市に、江戸時代末期の嘉永年間(1850年)に創業以来170年続く酒蔵がある。
『平家物語』の「敦盛の最期」に登場する武将、熊谷次郎直実に由来する「直実」の銘柄で知られる権田酒造株式会社だ。熊谷産の酒米と埼玉県で開発された酵母を使い、昔ながらの製法にこだわって仕込んだ同社の酒は、地元をはじめ多くの人々に愛されている。そんな老舗の酒蔵を裏方として支え続けてきた権田(旧姓 杉浦)幸子さん(昭60独)は、結婚を機に、コンピュータのSEから180度違う世界に飛び込んだ。その経緯や、酒蔵で女性が働く苦労、学業のかたわらアルバイトとサークル活動に励んでいた大学生活の思い出などを伺った。

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アルバイトで磨いたコンピュータのスキルを武器に、難関だった就職戦線を突破

 大学時代は文学部でドイツ文学を専攻していた権田幸子さんは、じつは語学が苦手で英語に対するコンプレックスが強かったという。

「でも違う言語ならいけるかもしれないって思ったんです。バカでしょ(笑)。ドイツ語はシステマティックなイメージがあってフランス語よりはいいだろう。それにみんながゼロからのスタートだろうから、私もなんとかなるんじゃないかと。そんなわけだから、ドイツ文学が好きで入ってきた人達とは話が合わないし、居場所がなくて。それで好きなことを探していくうちに、当時鈴懸の道の奥にあったコンピュータセンターにたどり着き、入り浸っているうちにここでアルバイトをするようになりました。」と幸子さん。

 もともと理系に進みたかったという幸子さんはコンピュータにも興味があり、COBOLやFORTRANなどのプログラム言語を学び、学生アシスタントとしてアルバイトに励み、卒業後はこのアルバイトで身に着けたスキルを活かし、立教高校でシステム開発の仕事に携わっていた。
「私が卒業した当時、女子学生の就職は本当に厳しかったんですが、立教高校が新たにコンピュータシステムを扱える人が欲しいというので運よく就職できたんです。だから結婚する気なんか全然なくて、キャリアを積んでバリバリ働いて生きていきたいと思っていました」と幸子さんは振り返る。

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インタビューに答える幸子さん


縁あって嫁いだのは、大好きな日本酒造りを生業とする家。だが、180度違う暮らしは衝撃の連続だった

 そんな幸子さんに、あるとき見合い話が舞い込んだ。お相手は権田酒造の跡取り息子だった6代目社長の清志さん。幸子さんの実家は100年以上続く紙問屋で、同じ位の歴史を持つ自営業の家同士ということで持ち込まれたご縁だった。

「結婚する気はなかったけれど、考えてみれば日本酒が好きだったから、造り酒屋の仕事に興味はありましたね」という幸子さん。日本酒の味を覚えたのは、学生時代に所属していた考古学研究会のサークル活動だった。

「女子学生は現場の花っていろんな人から言われたけど、私たちは発掘現場の力だったの。マンパワーもあるし、力仕事も厭わなかったから現場では重宝がられました。お酒もいっぱい飲んだけど、考古学研究会で飲むお酒といえば日本酒だったんです。いくつか行きつけの居酒屋があり、日本酒の一升瓶をキープしていた店もありました。あんまりよく飲むものだから、お銚子では間に合わなくて、一升瓶を横に置いてみんなで飲みたいだけ飲んでいた、という感じでした。それで私も日本酒が大好きになっていたので、造っているお酒が口に合わなかったら結婚するのはよそうと思ったんだけど、不味くはなかったの。でもとびきり美味くもなかったんです。よく言うんだけど、とびきり美味いと飽きちゃうでしょ。飽きがこなくて晩酌に毎日飲み続けられるお酒だなと思って……まあ、それで結局結婚することになって、自分がやりたかったこととはまったく違う世界に入ってしまったんです」という幸子さんにとって、権田酒造に嫁いでからの暮らしは、それまでとは180度違うものだったという。

「私は今住む地域を“ムラ”と呼んでみんなに笑われるんだけど、私にとってはとても古く思える考え方もあったし、よそ者を受け入れてくれない感じもあって、最初はチョー衝撃でしたね。また家業で一番びっくりしたのが、仕事に休みがないことでした」

 小売業もしているので、結婚した当初、休めるのは1年のうち元日の午前中だけだった。同じような企業でも、幸子さんの実家は会社とは別に住居を構え、週休2日制の給料制。それに対して権田酒造は職住一緒で決まった休みがなく、「お金がなくなったら仏壇の引き出しから持っていけ」という真逆な世界だった。

「店をやっている者の務めとして、お客様にいつでも対応できるように休みはとるな、という教育を受けてきましたからね。そのかわり、疲れたらちょっと横になるといったことはいつでもできる」という清志さんに対し、「嫁の私はその考え方は受け入れられなかったの。今でも酒造りの最中は生き物相手なので休みがありませんが、それ以外、イベントがない日曜・祝日、必要とあれば平日でも休めるように変えましたけどね(笑)」と幸子さん。

酒蔵の入り口


子育てや介護にも追われ、女性が働くことの難しさを痛感

 幸子さんは酒造りに直接関わるというよりも、それを支える裏方の仕事を一手に引き受けている。

「今は酒造りの現場は女人禁制ではないんだけど、原料の水が重いし、瓶も重くて、とにかく力仕事なんです。だから手伝いはできるけど、メインになって造れるような状況じゃない。もっと機械化されていれば違うのかもしれませんが、うちの蔵はほとんど人力なんですね。だから奥のことをやるのが私の仕事。結婚した当初は冬になると新潟から蔵人さん達が住み込みで働きにきていました。食事も時間帯や嗜好が違い、蔵人さんたちの分、義父母の分、旦那の分、子どもの分と4通り用意するので一日中台所にいるような感じでした。大学で学んだドイツ文学も、身に着けたコンピュータのスキルも活かせない。大学に行った意味はどこにあったんだろうと思っていた時期はすごく長かったですね。もっと仕事に関わりたくても、義父母の介護や子育てにも時間を割かなければいけないから、全力ではできないんですよ。女性が働くことの難しさを痛感しながら今に至っています」という幸子さん。

出荷を待つ酒瓶。500mlの瓶でさえ15本になると重い


写真中央の梯子付近にあるモニタ―は、タンク内の温度を管理するパソコンだ。
光センサーで温度を測定し、NTTさんの協力も得てシステムを開発。
温度データがスマートフォンへ送信されるため、遠隔での温度管理も可能になった


コロナ禍で打撃を受ける一方、コロナ熟成したお酒の予想外の美味しさを発見

 コロナ禍では飲食店関係の出荷がほとんどなく、店頭販売やイベントも実施できず、試飲してもらう機会もなくなり、売り上げは5割以上ダウンした月もあったそうだ。

「オーストラリアとシンガポールに輸出する計画もあったんですが、出荷を始めようかという矢先にコロナ禍が起きて、そのために仕込んだタンクのお酒がまるまる残っちゃうし……。また原料の酒米は熊谷の農家の方たちが丹精込めて作ったものを購入しているので、お酒の需要が落ち込んだからお米がいらないなんて申し訳なくて口が裂けても言えないので、例年通りに購入し、コロナ禍でも例年とほぼ同じ量のお酒を仕込みました」

 ただ、打撃を受ける一方で思わぬ発見もあったという。

「お酒の種類によって出荷時期を計算して製造計画を立てていますが、それが狂ってしまい、生酒のうちに売りたいお酒が売れなくて、しばらく寝かせてみたら、これが予想外に美味しかったんです。うちではコロナ熟成と呼んでますが(笑)。」

 今だから笑って話せるものの、当初はそれを市場に出すのが怖くて、現在は権田酒造で清志さんの片腕として働いている2人の息子さんも交え、家族4人で試飲しながらお客さんに売れるかどうかを判断していた。「だから無駄に試飲することが多かったですね(笑)。でも、こんなふうに大変な中での面白さもありました」

 こうした厳しい状況の中、校友会のつながりで新たなお客さんを紹介してもらうなど、「このところ、校友会の力を実感しています」と幸子さん。

 今後の夢について伺うと、「かつては溶け込めないと思っていたけど、いまだに違和感があるものの今や私もかなり土地の人。みんなに愛され活用される蔵元でありたい。次の世代にバトンを渡しながら、次の世代と一緒にこの地域の中で自分たちに何ができるかを考えていきたいですね。蔵をある程度開放して、みんなが集まれる場所をつくりたいという夢もあります。上の世代を見送り、子育ても終わったので、私の人生設計の中ではやっと自分の好きなことができるんじゃないかと思っているところです」と楽しそうに話す幸子さん。

 そして最後に、「たとえ思い描いていた夢が崩れたとしても、その先にはきっとまた面白いことがあると、60歳を目前にした今、実感しています。だから思い通りにいかないことがあっても、それを楽しんで生きていってほしいですね」と、学生たちに向けて温かいメッセージを贈っていただいた。


取材・文 / 学生ライター 伊藤淳子
写真 / 学生カメラマン 前田凜之介



権田酒造株式会社
〒360-0843 埼玉県熊谷市三ヶ尻1491

お酒搾りはじめました。さて味わいは? #酒造り #新酒 #日本酒

Posted by 権田酒造株式会社 on Saturday, December 11, 2021