親に褒められないように生きてきた
我が家族の関係性は、あくまでわたしの周りの友人家族と比べると、少し変わっているらしい。まあたしかに、そうかもしれない。お互いにほとんど干渉せず、いってしまえば興味すらなく、むしろ興味を持たれることを避けたいような、とはいえ絶対的なつながりである自覚はある、そんな距離感を保っている(そう思っているのはわたしだけの可能性もなくはないが)。
わたしには4歳離れた妹がいるのだが、あまりにも彼女の話題を出さないため、わたしを一人っ子だと思っている知人が多くいる。「一人っ子だと思ってた!」といわれると、いささかムッとするのも事実だ。その「ムッ」の正体は、「わたしだって妹という存在と共同生活を送るうえでの苦労を少なからずしてきたのだ」という承認欲求のようなもの。本来なら、妹という一人間があたかも存在しないように振る舞っていた自分を省みるべきなのだろうか。かけられた言葉に対する適切な返答も、未だにわからない。
物心がついた頃から、わたしは親に褒められないよう努めている。きっと世の中の大多数の子どもたちは、親に褒められたい一心で宿題やテストや運動会や部活やらをがんばるのだと思う。どのタイミングでどう捻くれたのか、わたしは成長した(している)自分を親に見られることを拒むようになった。如何に親に悟られずに家の外での活動を充実させるか。そんな無駄なことに気を配ってしまうのだ。今も鮮明に覚えているエピソードとして、こんなものがある。
中学生のとき、わたしは100人を超える大所帯の吹奏楽部に所属していた。仲間とわちゃわちゃ練習する時間が好きで、同時に先輩たちに褒められたい下心が功を奏し(先輩や先生には褒められ願望を抱くのだ)、気づけば部長に就任していた。先生に怒鳴られ、先輩にちやほやされ、仲間に励まされ、後輩の揉め事の板挟みになり、泣いたり怒ったり喜んだり激動の日々。10年とそこそこの人生で、初めてがむしゃらにがんばる経験をさせてもらったのだった。
まさに成長の真っ只中だったはずだが、わたしは部長になったことを親に報告しなかった。「うちの子すごいじゃん」とかいって喜ばれるに違いない、そんなの気持ち悪くてしょうがない、などという自意識がそうさせたのだ。就任から数ヶ月が経ち、業務にも慣れてきた頃、ようやく母から「部長になったんだって?!」と驚きの声がかかる。どうやらママ友からタレコミがあったらしい。大きなミッションに思わぬ凡ミスであっさり失敗したような、なんとも残念な気分になった。
もしかしたらはじめは、謙遜が入り混じった恥じらいじみた感情だったのかもしれない。しかしそれが徐々に反抗期と呼ばれる現象に重なり、その時期を終えても「褒められたくない」という意識は消えることなく、今現在の絶妙な距離感につながっている。
なぜ、わたしは親に褒められたくないのか。このスタンスがあまりに板につきすぎてまともに考えてこなかったが、三十路になって家庭を持つということについてリアルに考えるようになり、自身の歪んだ価値観に気がついた。外の世界では、平均よりちょっと上くらいのポジションにいることを望み励んだ。しかし内の世界、つまり家のなかでは、平均よりちょっと下でいたかった。ほどほどな問題児でいることで、結局は親に構われたかったのかもしれない。
随分と古い記憶が蘇ってきた。おそらく5歳か、6歳か。まだわたしが茨城に住んでいた頃で、妹が生まれてすぐくらい。ほんの短期間だったが、近所に友達ができてよく遊んでいた。ピンク色のノースリーブのワンピースがよく似合う女の子。彼女はそれまで遊んでいた友達とはどこか雰囲気が違っていて、大人びて見えた。母がその子にやたらと気を遣っていたこともその理由のひとつだろう。わたしは幼いながらに気がついていた。彼女は特別な存在なのだと。
彼女には左手がなかった。いや、当時のわたしの目にそう映っただけで、なかったわけではない。ノースリーブからすらりと伸びた腕の先に、ちょこんと小さな小さな指が生えていた。しかしそれらは物を掴んだり、握手ができるほどではないようだった。母をはじめとした周りの大人たちはあれやこれやとサポートしようとするが(周囲の子どもたちから無礼な発言が飛び出しやしないかと神経を尖らせていたはずだ)、対して当の本人は極めてあっけらかんとしていた。普通に遊び、普通に駆け回り、普通に同世代の子どもたちに溶け込み、毅然とした態度を取る彼女は、より一層“特別”に見えたのである。
小さな妹がいるわたしは寂しさを募らせていたのだろう。日がな一日、母を独り占めする妹が恨めしかった。そして、そんな母をも惹きつける彼女が、うらやましかった。まだ純粋無垢な少女だったわたしは、母の気を引きたい一心でふたりの共通点を見出し、さらに妙な感情を渦巻かせる。病院で生まれた妹。病院に通っていると話す彼女。ツルピカな脳みそで考えた末、思わず母にこぼした。
「わたしも病院に行きたい。大人たちに『大丈夫?』って言ってもらえるから」
するとみるみるうちに顔を険しくする母。次の瞬間には思いきり叱られ、わたしは号泣した。叱責内容の記憶は定かではないが、今思い返しても至極真っ当なことばだったと思う。母は母として正当に子を叱りながらも、感情的になっていた。もしかしたら泣いていたかもしれない。皮肉にも、このときばかりは母とわたしは正面から向き合い、誰の付け入る隙もない一対一のコミュニケーションを取ったのであった。
後日、彼女は地元へと帰っていったきり、二度と会うことはなかった。今どこで、何をしているのかな。きっと彼女のことだから、強く元気に生きているに違いない。
幼少時代のわたしが、今も心のどこかに住んでいるのかもしれない。自我から一番遠く暗い場所で、体育座りでもしながら指を咥えているのだろう。ほんとうのところは、親の気を引きたいのだ。妹でもなく他人の子でもなく、わたし自身を心配され、よしよしとされたいのだ。それが25年もの長く遠回りな旅路で選択を間違え続けた結果、「褒められず、干渉せず」という境地にたどり着いてしまった。
「褒められ、干渉される」対象を、10代は先生や先輩、周囲の友人たちに委ね、20代に入ってからは男に委ねた。30代間近になって、ようやく自分で自分を愛でることができるようになった。これはこれで成長だと信じたい。この歪みっぱなし人生に後悔はないけれど、今後はもう少しばかり親に感謝しながら生きていこう。
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