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The Joshua Tree Principle

ああ、人生は然ることながら、如何にしてももう元に戻るなんてことはできないのだな、などと寝過ごして最終電車を逃した京王線の高幡不動駅で思い当たるのである。

人生とはいつも、終電に乗っている時の緊張感と危険な乗り心地の良さとに身を揺らしているようだ。

あの頃に戻りたいと思う時間はたくさんあるが、毎日汗だくになって、文字通り泥臭くサッカーをしていた高校時代の夏の部活動はその一つだ。

「走れ、競れ、粘れ」を合言葉に仲間たちと魂をむき出しにして、その日々の先に何かがあると信じて走り続けた。あの時、僕の隣を走っていた仲間たちとはこの先いつまで経っても変わらずにつながっているのだろうと思う。

午前で練習が終わった後の部室だったか、帰る駅までの坂道だったか、ある時名前をつける話になった。当時は、女子のバスケ部やバレー部で試合中にお互いを呼びやすいようにコートネームというのをつけていて、サッカー部でもやろうと面白がった。

他は全くもって覚えていないのだが、僕の"りき"は"りきお"ということになった。なぜか元々の方が短いし呼びやすい。

しかし、何ともこのどこにも力の入らない感じがしっくりきてしまい、大学4年の今も定着している。

昔からあだ名は散々とつけられてきたが、自分の中でも年々とこれが一つの存在感を出してきている。りきおのイメージがあり、それは段々と性格を帯びてきてキャラクターになっている。

ひょっとしたら、なりたかった自分や憧れを少しでもその名前に託しているのかもしれない。

そうであるならば、せめてりきおには誰からも愛される永遠のサッカー小僧でいてほしいと思う。


嫌な出来事が良くなるためのたった一つの方法は、もっと嫌なことに出会うことだ。物事は感情を持たない。そこに名前をつけ、とやかく言っているのは僕らの勝手なのだ。


ある作家の話だ。クリスマスにもらった植物図鑑を開くと、そこにはジョシュアツリーという名前の木があった。「こんな名前の木は見たこともないな」と思う。ところが、外に出て家の近くを歩いてみると、そこら中にジョシュアツリーがあるではないか。

まるで魔法のようにそこに名前がつけられた瞬間、突如としてそれは自分の目の前に浮かび上がってくる。

頭の中は言葉で埋め尽くされている。脳のしわの隙間にまで入り込み、ふと物思いに耽るその瞬間ですら、僕らは言葉に支配されている。夢に見たあの光景も、たった今ここにある文章にも、僕は必死で言葉を詰め込んでいる。

それが悪いなんてことは一言も言うつもりはない。ただ、この不完全さ故に揺れている言葉とは何とも人間らしくも愛おしい。

例えば、今また過ぎていくこの時間は、取り戻せないとしてもせめてそこに良き思い出としての名前をつけることはできる。

そうすればきっと、人生は少し楽しいものになる。


せっかくだから、りきおは流れていく道のりを、いちいち立ち止まってそこに見える風景に、とやかく言って歩いてみたいと思う。

そこに愛を込めて、名前をつけてみたい。



#サッカー
#football
#Joshuatree
#ジョシュアツリー

スペイン1部でプロサッカー選手になることを目指してます。 応援してくださいって言うのはダサいので、文章気に入ってくれたらスキか拡散お願いします! それ以外にも、仕事の話でも遊びの話でもお待ちしてます!