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【短編#01】おとぎ話の森



 夏の終わりに美術館を訪れた。
 入口から長い廊下を抜けていくと、美術館にしてはめずらしく大きな窓が三枚開かれた、扇形の展示室に出た。窓一面に映る木々は瑞々しく、さながら、おとぎ話に出てくる森のようだ。廊下を歩いているあいだに魔法にかかって、おとぎの世界に迷い込んだような気分だ。

 ひんやりとした展示室には、流木か、あるいは廃材で作られたと思われる、ふたつの作品が床に配されていた。おそらく人間の背丈のニ倍はあろうか。大きな作品は不自然なほどに、絶妙なバランスで立っていた。 
 彫刻というのか、立体作品と呼ぶのか、よくわからなかった。目の前にあるものは、ふたつのとても大きな木。大きいということは、もうそれだけで十分すぎるほど荘厳で、美しい。ふたつの巨木のまわりを、行ったり来たりした。ふたつは関係性があるようで、それでいて、それぞれ独立しているようにも見えた。


 あなたとぼく、あるいは、
 わたしときみ。
 ぼくとあなた。
 いや、きみとあなた、わたしとぼく。
 わたしとわたし。  みたいな


 ひととおり行ったり来たりした後で、今度は近寄ったり遠ざかったりしてみた。巨木には確かに作家の手が入っているのに、明らかに自然な形をしていた。なめらかに見える木肌は、思ったよりもざらついていて、人と同じような年輪を感じた。
 着けていたマスクを少しずらして鼻を出し、誰にもバレないように木の匂いを嗅いだ。生命はとうの昔に尽き果てて、この姿になって十数年、あるいは数十年は経っているであろう巨木からそれでも木のぬくもりを感じた。死してもなお、役に立てる木は、人よりも尊い存在なのかもしれない。もし今度生まれ変わることができるのなら、木になるのも悪くないなと思った。

 まぶたを閉じると、新緑の輝きが映り、深く呼吸すると木香が鼻から肺に達して、耳を澄ませば、森風のさざめきが鼓膜を揺らした。

 ああ、いま自分がいるここは、おとぎ話の森なのだと錯覚し、このまま迷い込んでしまいたい衝動に襲われた。 


 何をどう見てもいい。
 何をどう感じてもいい。
 手放しで、この自由さが、たまらなくいい。


夏の色に憧れてた フツウの毎日
流されたり逆らったり 続く細い道

スピッツ《遥》




2021年9月、2024年5月加筆


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