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『ショック・ドゥ・フューチャー』を観て(インダハウスとステイホームは何が違うのか?)

きょう、『ショック・ドゥ・フューチャー』という映画を観た。あらすじは以下のようなものである。


“1978年、パリ。若手ミュージシャンのアナは依頼されたCMの作曲に取り掛かるが、納得のいく仕事ができずにいた。そんなある日、アナは見たこともない日本製の電子楽器に出会い、理想のサウンドへのヒントを得る。”


これだけ見ると、『アナさんが最新機材ですげえ音楽を作って、瞬く間に時代を席巻するサクセス・ストーリーなんでしょ』と思う御仁もあるだろうが、この映画はそういうものではない。胸のすくような痛快なカタルシスはここにはない。アナが数々の問題を解決し、栄光を掴むことはついにない。実際、78年のパリでそういうことが起きなかったように。

ではどんなことが描かれているのかというと、こんな具合である。締め切りに追われる作曲家の主人公が→使っている機材が故障したため→エンジニアの友人を呼んだところ→日本製のドラムマシンを見せてもらい→頼み込んでそれを借りる→その後レコードマニアの友人も遊びに来て→新譜を聞かせてもらううちにヒントを得る……という、まるで童話のような連鎖反応によって成り立つストーリー・ラインである。しかも、それらのほとんどのシーンは主人公の部屋で展開される。まさに宅録、まさにイン・ダ・ハウスである。

ワンシーン/ワンカットがとにかく長いし、編集もラフでかったるく、いかにもフランス映画という感じの退屈さに満ちているのだが、むしろそれが作品の質感にマッチしている。トランスとチルアウトの間にある状態を、非常に高い解像度で作品に落とし込んでいる。

何よりこの映画において最も優れている点は、『家で友達とダラダラダベっているときのダルい空気感』の再現度の高さである。あの空気をこれほど高い解像度でパッケージングした映像を、僕はこれまで観たことがない。

友達とアニメを観ながら『これぜってーキノコ食って作ってるよな』なんつってゲラゲラ笑うシーンや、レコード・マニアの友達が新譜をいっぱい携えてやってきて、『これベルギーのバンドなんだけどめっちゃイカれてるよ!』とか解説しながら次から次へと盤をかけるシーンなど、ものすごくわかる。こういう時間ってあるよね、と思う。

サブスクとSNSが生み出した、短時間で刺激を得ることを是とする即効性重視の現代的なクリエイティヴィティは本作にはない。とにかく、ただただ、ひったすらダルいのだ。そしてそれが絶妙に心地よいのだ。人間関係の機微、音楽が好きで好きでたまらない人間たちの精神的交感が活写されている。

“あのときアイツと何かめっちゃ真面目な話したんだよな、なに話したかは全然覚えてないけど”という形でいつまでも記憶に残り続ける夜がどなた様にもあるだろうが、そういう夜の瞬間がこの映画には詰め込まれている。

まぁ音楽映画なんで当たり前なのだけれども、音楽好きな人、とくにバンドとかDJやってる人はかなり共感できると思う。

“最近作ってるトラックを遊びに来た友達に聞かせたら、なんか流れで友達の歌を入れることになって、しかも結果的にめっちゃいい感じになった”という、音楽好きなら誰しもが体験したことがあるであろうあの一連の流れ、アレを完全に映像化している。いやマジで、曲作るときってこういう感じだよねとか思う。

『いや〜、実はまえバンドやってたんだよね』『なんてバンド?』『○○ってバンド』『え、やば、ライブ観たことあるよ』『マジ? 奇遇だね』『あのバンド、なんで解散したの?』『ギターの奴がライブ中キマりすぎて楽器弾けなくなったんだよね』というような会話が出てくるのだけど、ここも本当にすごい。こういう会話、本当にライブの打ち上げとかで聞いたりする。本作の監督/脚本/音楽を手がけたマーク・コリンはもともとミュージシャンだそうだが、音楽をやっている人じゃないとこの絶妙な質感は出ないと思う。マーク・コリンによる劇伴もものすごくクオリティが高くて、どれが書き下ろしの楽曲で、どれが既存の曲なのかエンドロールを見るまで全く判別ができなかった。おそるべき時代考証性の高さである。

あと、本邦では違法薬物認定されているマリワナ煙草がめちゃくちゃ出てくる。同じく仏映画である『最強のふたり』はマリワナを好意的に描いた作品として話題になったが、この作品はもう好意的とか露悪的とかそういうレベルを超えて、『なかったら始まらないよね』ぐらいの日常的なテンションでマリワナを描いている。それだけでなくフツーのタバコを吸うシーンもやたらと多いんで画面が基本的に煙たいのだが、それもまたこの映画の輪郭のぼやけた感じをより加速させている。

アナログ機材に対するフェティッシュも一種異様だ。主人公が機材を操作して作曲に取り組むシーンがけっこうな長尺でたびたび挿入されるのだけれども、まるでSF映画のような演出なのである。巨大なアナログ・シンセに向かう主人公の後ろ姿など、あたかも宇宙船のパイロットのようだ。しかもこの映画はハチャメチャに音が良いので、それが没入感をいちだんと加速させる。一音一音の末端がどのような波形を描きながら収束していくかがわかるほどだ。そのすばらしい音響でもって、静かな緊張感と集中力の高まりをたくみに表現している。


音楽業界の前時代的なマチズモなども描かれていたりするのだけれど、冒頭に書いたとおり、『女性蔑視者に一泡くわせてやる』とかそういう展開はなくって、日常の中に立ち込める靄のようにそれは描かれている。なにかが解決し、胸がすくカタルシスが訪れるということはついにない。シスターフッド的な側面も確かに描かれてはいるのだが、観客が望む形でのダイナミックなドラマは起きない。輪郭のぼやけた感情のざわめきが生む、とてもささやかでありふれた奇跡だけが折り重ねられてゆくのみだ。長い目で見れば、人生を変えるのは劇的な出来事ではなく、むしろ誰にでも訪れるさりげない瞬間である。本作はそれをほとんど慈愛のような視線でやわらかく描き出している。


ステイホームとインダハウスは何が違うのか。ダンスフロアが先なのか、それともダンスミュージックが先なのか。僕はいま、そんなことを考えている。




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