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SOULFUL NOVEL 『JOINT』 #5



 これは音楽と、時間と、そして友情についての物語である。

 

 #5.WHERE


 朝五時。のぼったばかりの朝陽がじんわりと空気を暖色にそめる頃、イナバはひとり公園にいた。早朝の公園に人気はなく、ときたま散歩をしている人やランニングをしている人が通り過ぎるぐらいのものだった。イナバは部屋着のジャージにベースボール・キャップといういでたちで、テニスコートの前に設えられたベンチにうずくまりながら、スナコが来るのを今か今かと待ちわびていた。

 なぜ、こんな早朝の公園で、イナバがスナコを待っているのかというと、話はちょうど一時間ほど前に遡る。

 午前四時二分。イナバは自宅にて老舗オカルト雑誌『ノイ!』の特集記事を執筆していた。それは先日観測された太陽フレアについての記事だった。太陽フレアとは太陽の表面で起こる爆発現象のことである。一度の爆発で、人類が使用する総電力の数十万年ぶんにも相当するエネルギーを発生させるこの現象は、約1億5000万キロ離れた地球にも影響を与える。
このテの雑誌では、太陽フレアだとか皆既月食だとか惑星直列だとか、そういう周期的に起こる天体現象は必ずとりあげる。太陽フレアは約11年周期で起こる現象だが、『ノイ!』は1980年の創刊号以来、この現象を毎回かならず取り上げてきた。太陽フレアが発生すると、オーロラが世界各地で大量発生するとか、GPSや無線が誤作動を起こすとかまぁいろいろな現象が起こるのだが、それらを妄想やヨタ話をまじえて面白おかしく書き上げるのだ。
たとえばアイルランド北部のある村には太陽フレアの時期だけ現れる集団的幻覚があるとか、もしくは無線の誤作動を利用して公共電波の乗っ取りをたくらむメディアテロ集団がいるだとか、まぁそんなかんじのいかにも胡散臭くてくだらないやつだ。

 イナバはこういった記事を読んだり書いたりするのが何よりも好きだった。オカルトや都市伝説にハマる人は厭世的な人が多いそうだが、イナバはそれは正しいと思っている。毎日死にたいと思いながらどうしても死ねずにいた中学時代、古本屋でたまたま手に取った『ノイ!』のバックナンバーにイナバは救われたのだ。
UFOやオーパーツ、超能力や心霊スポット情報など、およそ人生において役に立たなそうな記事で埋め尽くされた『ノイ!』を読んだイナバは、「こんな本を大真面目につくってる大人がいるんだな」と思った。当時中学生だったイナバの目から見てもそれは相当にインチキ臭かったけれど、『ノイ!』は大切なことを教えてくれた。それは、世界を面白くするのもつまらなくするのも、全ては自分の受け取り方次第ということだった。
オカルトや都市伝説はたしかに色眼鏡かもしれない。だが、その色眼鏡はたいくつな現実に彩りを与え、世界を輝かせる。
全員が敵で、じぶんも含めて世界の何もかもが大嫌いだったはずのイナバは、『ノイ!』を読み終わる頃には、生きてあげようかな。という気になっていた。あれから十年経ったいま、イナバは『ノイ!』のメインライターをつとめている。


『……地球上のあらゆる生物は磁気の変化を敏感にキャッチしている。したがって、太陽フレアが引き起こす磁気嵐が生物に何らかの影響を及ぼす可能性は高い。太陽フレアは生物の進化に関わっていると主張する科学者さえいる。
たとえばキリンの首が長いのは、大昔にキリンの遺伝子が突然変異を起こしたからだが、それらの変異は群れの中でも非常にまれだし、そのまれなキリン同士が何百世代にもわたって交配し続けなければ、キリンの首はああまで長くならなかった。
なぜ、首の長いキリンは、同じような仲間を見つけて、交配することができたのだろうか? 
その仮説のひとつが、太陽フレアの発生による磁気嵐の影響である。
磁気によって、あるタイプの動物の脳に変化が起こり、たがいに引かれあうようにテレパシー能力を獲得したという説だ。
これは荒唐無稽に思えるかもしれないが、生物の進化は適者生存だけでは説明がつかない。未だ解明されていない、なんらかの外部的要因が存在する。
"類は友を呼ぶ"というが、まったくちがう場所にいる他者どうしを結びつけるのは、運命やオーラなどではなく、電磁波なのかもしれない。
太陽がわたしたちを集まらせるのだ。
いずれにせよ、電磁波と生命の関係はいまもって解らないことだらけである……』


 ……そんなテキストをツラツラと書いていた折、スナコから突然電話が来たのである。先日スナコから相談を受けていた"誰もいないはずのアパートの隣室からピアノの音が聴こえてくる"問題をずっと気にしていたイナバは、とりあえずスナコと連絡が取れたことに安堵しながら電話に出た。

「……はい、もしもし」
「おっ、イナバ。起きてたかぁ?」

 スナコの声は抑揚がふわふわしていて、そのくせ妙にテンションが高かった。なんだかやたらと鼻を啜っているし、明らかに酔っ払っていた。イナバはこの一瞬で色々なことを察したが、とりあえずスナコが無事そうなことに安堵しながら電話をつづけた。

「ん、起きてたよ。ていうか、原稿やってた」
「ああ、そう。いやぁ、あのさぁ、さっきマジヤバいことあってよ。ちょっとマジで誰かに今すぐ話したくてそんで電話したんだけどさぁ、いま話せるか?」
「う、うん。どうしたの?」
「アレだよ、こないだ話したアレ。アレ、マジでヤベー事になったわ」
「アレって……例の"誰もいないはずの隣室からピアノの音が聴こえてくる"問題?」
「そお! "誰もいないはずの隣室からピアノの音が聴こえてくる"問題。アレな、違ったわ!」
「え、なにが違ったの?」
「隣の部屋には人がいたんだよ。マジでピアニストが住んでたんだ。でも、そいつは1980年の人間だったんだ」

 1980年? 意味不明なスナコの説明に、イナバはおもわず首を捻った。

「……ごめん、もっかい言って」
「だあらあ、隣の部屋は1980年だったんだよ。あたしの住んでる201号室は2024年だけどー、隣の202号室は1980年だったの。で、壁越しに音漏れが響いてたっていうワケ」
「…………んん?」
「あ〜、クソ、説明ムズいな。なんつったらいいかなぁ……」
「……つまり、お互いの部屋の物音だけがタイムトラベルしてたってこと?」
「うおっ鋭っ! 話早っ! そう、そういうことなんだよ! やっぱお前はスゲェな、さすがオカルトライター!」
「ん、それはでも……ちょっと……信じられない話だけど……」
「いやわかる! それはめっちゃわかる。自分でも信じられねえもん。ついさっきまで隣の人と色々しゃべってたんだけどさ」
「え、は、話したの?」
「おお、めっちゃしゃべったよ。3時までずっと話してた。なんか、いっつも向こうの部屋と繋がってるワケじゃなくて、夜中の1時から3時までだけっぽい」
「あ、二時間だけなんだ……」
「いっしょに音楽聴いたり、踊ったり、色々身の上話とかしたよ。マジでかなりウケた。そいつ、オトクラっていうんだけどさぁ、なんかSFマニアっぽくて、色々面白い話してたよ。今度イナバにも紹介したいわ。そしたらさすがに信じるだろ?」
「う、ん。そうだね、直に話せたら、さすがに受け止めるけど」
「オトクラはさぁ、シャンソン喫茶でピアノ弾いてるらしくてさ。今日も夕方ぐらいから朝まで仕事なんだって。色々話聞いたけど、マジでめっちゃ大変そうだった」
 
 その口調はとても気安い感じだった。イナバはこの時点において、スナコの言うことをすべて信じきっていたワケではなかったけれども、そんなふうに壁越しに会話しただけの人間(しかも、44年前の隣人!)にそこまで親しみを感じられるスナコの感性を、イナバはとても好ましく思った。

「へえ、そういう仕事してる人なんだね」
「なんかジャズのバンドやりたくて尼崎から上京してきたらしいんだけどさ、メンバーなかなか見つからなくて苦戦してるんだってよ。そういうトコもあたしと似ててさ、なんか……なんつうか……わかる! みたいなさ」
「そ、そうなんだ。話してみたいな」
「イナバさぁ、明日とか何してんの? ウチ来てオトクラと話そーぜ」
「あ、や、明日はちょっと仕事入ってて。取材があるんだよね」
「あ? 取材ってなに? なんの取材すんの?」
「えと、太陽フレアの研究してる人のインタヴューがあるんだよね。北海道の山奥にひとりで住んでるらしいんだけど……」
「北海道!? 北海道まで行くの!? じゃあ何かお土産買ってきてくれよ! 美味い鮭とばとか、瓶に入ったマリモとか、ラベンダーのポプリとか、そういう系のヤツ!」
「そ、そういう系のやつね。探しとくね」
「あーっ、あとアレだ、ご当地系の焼きもろこしスナック! あたし、焼きもろこしスナックマジで超好きだからコレ絶対マストで!」
「焼きもろこしスナックね。わかったよ」
「そうかァ、北海道かァ。ツアーで行ったことあるぐらいだけど、ちゃんと旅行とかしてぇなぁ……北海道ねェ……」

 スナコはしみじみとした口調で漏らしていたが、やがて思い直したかのように声をあげた。

「つうか、今日は何すんの? 何かあんの?」
「今日は……家で、原稿やるぐらいかな」
「おっ、じゃあちょっと会おうぜ。始発出たら、ウチの近くの公園来いよ」
「え」
「もうあたしバッキバキで寝れなそーだしさー、ちょっと調子こきたいんだよー。なー、頼むよー。ちょっと付き合ってくれよぉ」

 スナコは甘えたような声を出した。イナバは電気を落とした暗い部屋で灯る、ノートパソコンの液晶画面をちらりと一瞥した。まだテキストは冒頭も冒頭だったし、スケジュールを考えると明日の飛行機に乗るまでにはコレを片付けておきたかった。だが、しかし。

「……わかった。いいよ、始発ね。いまから準備すれば乗れると思う」

 イナバが頷きながらそう答えると、電話の向こうでスナコが嬌声をあげてはしゃいでいるのが聞こえた。スナコはいつも思いつきで人を誘う。そしてその思いつきに、イナバは可能な限り付き合うことに決めていた。そういうふうにスナコが誘うときは、本当に今すぐ誰かに会いたいときで、その相手に自分を選んでくれたことをイナバはとても嬉しく思った。

 

 ……まぁそんなワケでイナバは始発に乗り、スナコが住まう水木荘からほど近い公園にやってきたのであった。そして五時十五分頃、ようやくスナコは現れた。スナコは寝癖全開でヨレヨレのネルシャツを羽織り、おまけに片手には缶ビールを持っていた。スナコはイナバの姿を認めると、悪びれもせずに無言で片手を上げた。

「よぉ〜〜〜〜〜。おっは〜〜〜〜〜〜」

 そうして千鳥足でベンチまでやってきたスナコは、イナバの隣にどっかりと腰を下ろすと、目を細めてじろじろイナバを眺めまわした。その目は充血していて、全身からは酒の匂いがぷんぷんと漂っていた。イナバはしばし黙っていたものの、やがて耐えきれずに恐る恐る口を開いた。

「な、なに……?」

 するとスナコは、大げさにのけぞりながら大きく首を振った。

「いやいやいや、いやいやいやいや」
「え、え?」
「違うって。それは違うって、マジで」
「なにが?」
「さすがに、さっすがに違うんじゃねーの、それは」
「えっ、ちがった? 僕、なんかちがった?」
「ちげーよ、全然ちげーって。なんだよそのカッコ」

 スナコは眉間に皺を寄せながら、イナバが着ているあずき色のジャージを指差した。先日、喫茶店で会ったときの服装をダメ出しされたので、今回はあえて部屋着のままで来たのだ。予想だにしなかったこの批判にイナバは困惑しながらも反論した。

「いっ、いや、だって、こないだ、可愛い格好で来るなって言ってたじゃん!」
「だからってオメエ、ジャージにメガネて! ジャージにメガネて!! ジャージにメガネて!!!」
「えっ、ダメ? これ、ダメなの?」
「ああ、マインドとか含めて全部ダメ。逆に勝ちに行ってる。狙いすぎ」
「ねっ、狙ってるとかないから! なんも狙ってないから!」
「いや狙ってるね。お前アレだろ、どうせ自分のこと可愛いとか思ってんだろ」
「お、思ってないし」
「思ってねえの?」
「思ってない」
「本当に? 心の底から1ミリたりとも思ってない?」
「心の底から1ミリたりとも思ってない!」
「心の底の、さらに奥のそのちょっとナナメ上のところとかでも思ってない?」
「心の底の、さらに奥のそのちょっとナナメ上のところとかでも思ってない!」
「思えや!」

 イナバが首をぶんぶん振ると、スナコはイナバの頭をはたいて言った。イナバは頭をさすりながらスナコの顔を見た。

「え、痛い! 何で!?」
「可愛いって思えよ! 自分のこと可愛いって思っていこうや! 自分のこと好きで何が悪いんだよ! 何も悪くねえじゃん!」
「す、スナコちゃん、相当酔ってるね……」
「ハア? 酔ってねーし、全然酔ってねーし!」
「いや、凄いお酒臭いけど……」
「酔ってねえっつってんだろ! なんなら一滴も飲んでねーよ! シラフ! マジで超シラフ! マジで! マジで完全シラフ! マジで! マジで! ま……うおおえええええええええええっっ!!!!」

 言うが早いかスナコは身体を折り曲げると、猛烈な勢いで地面にゲロを吐いた。
 
「わ、大丈夫っ!?」

 イナバは慌ててスナコの背中をさすろうとしたが、スナコはその手を払いのけた。

「大丈夫だから。超大丈夫。マジで全然余裕。マジで超らくしょ……おっええええええええええええええ!!!!!!!」

 スナコはまたしても猛烈な勢いでゲロを吐いた。バチャバチャバチャバチャッというバケツをひっくり返したような音が早朝の公園に響き渡った。

 ……三十分後。スナコはベンチに横たわり、イナバの太腿に頭を載せていた。陽はだいぶ高くなっており、涼やかに吹く風は草の匂いをはらんでいた。目の前のテニスコートにふたりの青年がやって来て、軽い準備運動ののち、ラリーを始めた。ぽこん、ぽこんという乾いた音をききながら、今日は暑くなりそうだなとイナバはおもっていた。スナコが身体を丸めて咳き込むと、イナバはその顔を覗き込み優しい声色でたずねた。

「スナコちゃん、大丈夫?」
「や、まーじで、死ぬかと思った……昨日さ、マジでしこたま飲んだんだよ」
「言ってたね。オトクラさん……だっけ? そんなに盛り上がったんだね」
「おー。イナバがさぁ、北海道から帰ってきたらぜってぇ紹介するよ」
「……あのさ。ずっと考えてたんだけど、その隣の音って、録音とかできないの?」
「……あ?」
「しょ、証拠見せろとかそーゆー話じゃなくてさ、オトクラさんの声とかピアノが、その場で実際に音として鳴ってるのかなって」

 イナバがおずおずと喋ると、スナコは下唇を噛んで少し考え込んでいたようだったが、やがて思い出したかのように声を張り上げた。

「あ、あ、あ! そういや、そーだ、スマホのボイスメモ回してた! いま思い出した!」

 そうしてスナコはポケットからスマホを取り出して操作を始めた。

「そうだ、そうだよ。初めてオトクラと喋った夜に、録音してたわ」

 ほどなくボイスメモが再生された。スナコとイナバは黙りこみ、しばしその録音に耳をそばだてた。ホワイト・ノイズ混じりに、スナコの声が流れてくる。

『いや、弾かないんかい……』

 ちゃんと録れてる、と思ったのも束の間。それから聞こえてきたのは、スナコの声だけだった。

『え、あ、いや……あの、201号室に住んでるー、成宮っス……』
『ちょ、ちょ、ちょっと待って。1980年? いま1980年って言った?』
『いまは……西暦、2024年……だけど』
『キョジカン?』

 どれだけ耳をすませてみても、聞こえてくるのはスナコの声だけだった。それはまるで、電話でしゃべっているのをただ録音したみたいだった。やがてスナコは溜息をつくと再生を止め、怪訝な顔をしているイナバを見上げた。

「……なんにも入ってねーな」
「……うん」
「っ、こ、これだけ聞くとさ、何かあたしの頭がおかしいみたいな感じに思うかもしんねーけど、こんとき色々しゃべってたんだ。ピアノだって鳴ってた。本当なんだよ、マジで……」
「信じるよ」
「え」

 キョトンと目を丸くするスナコをまっすぐに見つめてイナバはいった。

「たぶんこの現象は、テレパシー的なものなんだと思う。無線の周波数が合うみたいに、スナコちゃんとオトクラさんの何かがハマって、それで、二人だけがやり取りできるんだよ。うん、間違いない」

 力強く頷くイナバに、スナコは目をパチパチ瞬かせた。

「っ、お、おー。よくコレで信じられんなオマエ」
「逆にこれで信じたよ。だって、スナコちゃんが虚時間とかいうワケないし」
「それで信じたのかよ」
「うん、信じた」
「……へへ。やっぱお前スゲー変わってるよ」
「しかも、いま書いてる原稿がさ、まさにそーゆー内容だったんだ。太陽フレアが生み出す磁気嵐によるテレパシー能力の獲得。さすがに思念が時空連続体を超えるってとこまでは思いつかなかったけど、でも、有り得ない話じゃないのかもしれない」
「おお。全然言ってる意味はわかんねーけど、とりあえず良かったよ。とにかくさ、ホントなんだ」
「ね、オトクラさんとどんな話したか聞きたいな」
「おー。オトクラの地元の話とか超ウケたよ、あのさ、オトクラはさ、尼崎の生まれなんだけど、母親がヒッピーだったらしくてさ……」

 それから二人は、この奇妙なミラクルについて語り合った。公園を散策しながらスナコは昨晩どんな話をしたかを興奮気味にイナバに説明し、イナバはそれに興味深く耳を傾けた。

 やがてする事がなくなると、スナコの提案でふたりは映画館へ行った。トーキング・ヘッズのライヴ映画『ストップ・メイキング・センス』の4Kレストア上映を観に行ったのである。イナバは勿論のこと、スナコもトーキング・ヘッズというバンドについては全く知らなかったが、とにかくやたらと評判がいいから鑑賞してみることにしたのだ。

 午前九時のミニシアターは客数もまばらだったが、イナバとスナコはあえて最前列の席を陣取り、映画を観た。演奏される楽曲はどれもこれも知らないものばかりだったが、クールな演出や演劇的なアンサンブルにイナバはすぐさま魅了された。とりわけ、字幕で表示される訳詞をイナバはすばらしいと思った。うまくは言えないが、何だか自分のことが歌われているような気がしたのだ。なにより『This Must Be The Place』という楽曲はとても素敵だった。それは真に誠実で素直なラブソングだった。フロアランプをたおやかに抱きしめながら、フレッド・アステアへのオマージュを全身で捧げるデヴィッド・バーンの姿を、イナバはとてもセクシーだと思った。セクシーで、やさしいと思った。
そうしてふと、隣の席のスナコを見やると、スナコは泣いていた。微動だにせず、スクリーンをじっと見つめながら、一筋の涙を流していた。
そのスナコの横顔を、イナバはとても愛おしく思った。
そしてこうも思った。たぶん自分は、今日のできごとをきっと死ぬまで覚えているのだろうな、と。




♪Sound Track : This Must Be The Place (Naive Melody)  /  Talking Heads






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