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劇場アニメ『映画大好きポンポさん』完全初見感想


〈『編集』にフォーカスを置いた孤高のアニメ映画〉


先日、吉祥寺オデヲンにて『映画大好きポンポさん』を観た。

もともとは杉谷庄吾【人間プラモ】がpixivに投稿したマンガが原作で、公開されるやたちまち各所で話題を呼び、すぐさま書籍化&続編刊行&映画化が決定したという、SNS時代のインターネット・ドリームを体現した作品なのだが、僕はこの原作のファンである。映画愛をポップに炸裂させた丁寧なストーリー運びや、性癖を詰め込みまくりながらも非常に安定感のあるキャラデザはマジでツボった。ちなみに同作者の『猫村博士の宇宙旅行』もすごく素晴らしい。コスモロジー、量子力学、時間の概念、神の存在などの難解なテーマを、きちんとした科学考証をふまえた上でポップな冒険物語に仕上げており、『この人は映画だけじゃなくて科学も強いのか。天才だな』と心底敬服したものである。

話が少々スリップしたが、『映画大好きポンポさん』の大まかなストーリーを紹介すると、伝説的映画プロデューサーの孫娘・ポンポによって映画監督に抜擢された主人公・ジーンが粉骨砕身で制作に取り組む——というものだ。“ボンクラ青年が創作物を通して己の存在を世間に知らしめる”系といえばご理解いただけるであろう。原作はそれ系の中でも相当上質なヤツだ。かなりの映画マニアと思われる作者が随所に挟み込む小ネタもナイスである。ロジャー・コーマンを彷彿とさせる映画哲学を持つポンポさんが『セッション』が好きという設定だけは、“趣味わりぃな、ポンポさん”と思ったけれど(スンマセン)。


さて、その原作を映画化した本作を観て、僕が思ったことを書く。ストーリーについての具体的な詳述はなるべくしないつもりだが、まぁ十分に『ネタバレ』に属する感想文になると思うので、その辺を避けたい方は注意されたし。


まず、本作はとても変わった映画だ。とりわけ変わっている点はふたつ、『映画制作をテーマにしたアニメ』であるという点と、『編集』を主軸に据えているという点だ。変わっているというかこれはもうかなりの激レアで、映画史を紐解いてもこのような作品はほとんど存在しないのではないだろうかと思われる。


順を追って書くが、“映画制作をテーマとした映画”というのは数限りなくある。

『8 1/2』、『軽蔑』、『アメリカの夜』などのクラシックから、『グレート・スタントマン』、『蒲田行進曲』といった裏方にフォーカスした愛すべき良作、『僕らのミライへ逆回転』や『ブリグズリー・ベア』のようなハートウォーミングなコメディ・ドラマ、メタ構造を巧みに利用した『ゲット・ショーティ』、西部劇を換骨奪胎した『サボテン・ブラザーズ』、その『サボテン〜』をさらに発展的進化させたクソバカコメディの金字塔『トロピックサンダー 史上最低の作戦』、実在するカルト映画の制作過程を伝記ふうに描き出した『エド・ウッド』、『ディザスター・アーティスト』、『ルディ・レイ・ムーア』、何が起きているのか最後まで一秒も理解できないが狂ったように面白い『ラスト・ムービー』などなど、枚挙にいとまがない。最近ならば『カメラを止めるな!』が記憶に新しいところであろう。

そして“映画制作をテーマにした映画”というのは大体おもしろい。まぁ考えてみるとこれは当たり前のハナシで、よっぽど映画が好きで、映画がもたらす魔法というものを信じていなければ、映画制作をテーマにした映画などつくるワケがない。その狂信的なパッションによって、こうした作品はどれもこれも名作たりえたのだと思う。

しかし、“映画制作をテーマとしたアニメ”となると、ほぼ皆無に等しい。『映像研には手を出すな!』とか『SHIROBAKO』とか、“アニメ制作をテーマにしたアニメ”というのは存在するが、映画制作となるとほぼ見当たらない。今敏の『千年女優』はギリギリそうともいえなくもないが、アレは映画の時間芸術としての側面に重きを置いた回顧と展望の物語で、制作そのものにフォーカスを向けているとは言い難い。『いちご100パーセント』などはストーリーだけ抜き出せば完全にそうなのだが、『いちご〜』を“映画制作にかける青少年たちのドラマ”と紹介する人はまずいないだろう。少なくとも僕はしない。北大路さつきがいかに素晴らしいか、という話だけを延々とするだろう。


なので、『映画制作をテーマとしたアニメ』という点だけで、本作はもうすでに類例のないポテンシャルを獲得している。これだけで本作は賞賛に値する。単純にムチャクチャ難しいからである。映画制作をテーマにする以上、とーぜん劇中劇が描かれることになるワケだが、この“現実”と“虚構”の差別化が難しいのだ。

アニメ制作をテーマにしたアニメであれば、劇中劇は単に絵柄を変えるとかすればいいのだが、映画制作をテーマにしたアニメとなるとそうはいかない。絵柄を変えるのが不可能だからである。

しかも本作の劇中劇は、『失脚した音楽家が、大自然の中である少女と出会い、己を見つめ直し、再起する』という文芸ドラマめいた質実剛健なものであり、絵柄を変えることはもちろん、“はい、ここ劇中劇ですよ〜”と提示するようなブッ飛んだ絵面を作ることも不可能なのである。

そこで本作がとったのは、“現実”をブッ飛んだ絵面で構築するという演出であった。

本作は中盤ぐらいまで、非常にエフェクティヴでギミックに満ちた映像が連発する。カット数もものすごく、長くても1カット5秒ぐらいで切り替わる。止め絵で見せるとかそういうのがなくて、とにかく画がバンバン切り替わるのだ。“せわしない”という印象すら受けるほどに。

ストーリーだけを見れば劇場版アニメには不向きな、悪い言い方をすれば地味な作品なので、この演出は超正解だと思う。さながら実写版『バクマン。』が作画シーンにおいてバトル漫画のようなエフェクトを用いた発想に近い。手を変え品を変え繰り出されるアッパーな演出ときたら、もう派手派手だ(by 宇髄さん)。

さらにその派手なエフェクトを際立たせるために、景色や街並みをものすごく写実的に美麗に描いている。雨に濡れる“ニャリウッド”の通りや、昼下がりのカフェの光彩の妙味などは溜息が出るほどで、しかもこれほどのクオリティの背景をためらいもなくバンバン使う。

“写実的で美麗な日常風景”を描くアニメ作家といえば新海誠がいるが、本作における風景描写はそれとは全くベクトルが異なる。

新海誠の風景描写は『普段あなたが何気なく過ごしている日常は実はこれほど美しいのですよ』というメッセージを含んだ、やりすぎなぐらいエモオショナルでセンティメントなものだが、本作はいい意味でドライだし、とてもナチュラルなものに思える。

雨の描写ひとつとってもそうで、新海誠は登場人物および観客の感傷加速装置として雨を扱うが、本作における雨はあくまで登場人物の心情を乗せない。雨を雨として、虹を虹として、夕凪を夕凪として扱う。アニメ作品ではあまり見られない、非常にストイックな感覚だ。


長々と書いてしまったが、本作はそうしたあらゆるアイディアによって、ほぼ類例を見ない“映画制作をテーマにしたアニメ”を成立させているのである。

ほいで、もう一つこの映画で際立っているのが、“編集”という行為にフォーカスを置いている点だ。前述した通り、映画制作をテーマとした映画というのは山ほどあるが、『編集』をメインに据えた作品というのを僕は知らない。それらはだいたい、難航する撮影現場のドラマをめぐる物語である。数々の問題に直面しながらも、奮闘の結果、ついに映画を完成させる(あるいはできない)といったストーリーが大半だ。

しかし本作は、中盤あたりで撮影は大した問題もなくほとんどすべて終了してしまい、主人公が“編集”にとりくむ場面をメインに据えているのである。こんな映画が他にあるか。

少し話は変わるが、作中で『普通、監督は編集をしないけどウチは出来る子にはやらせる方針だから』というセリフがあるように、監督は通常において編集を行わない。これはスキル的な問題というよりむしろ制度的なことで、欧米の映画界では監督は編集権をもたない場合がほとんどだ。プロデューサーというのは映画を短くしたがり、監督というのは映画を長くしたがるもので、その間に立つのが編集マンという仕事なのである。いくつかの例外をあげるならば、『編集こそが映画の本質である』と喝破したヒッチコック、『編集は他のどんな芸術形式にも似ていない』といい、編集作業に最低一年をかけたキューブリックなどが有名だ(もっとも音楽においてはクリエイティヴな編集は40年代から存在し、ヒップホップの台頭やプロトゥールスの普及などによってもはや常識と化しているが、まぁキューブリックがいいたいのはそういうことではないのだろう)。

また本邦では北野武などがそうだ。編集技師とのマンツーマンというかたちの作業形態ではあるが、北野武は『映画制作で最も面白いのは編集だ』といっており、ハリウッドから制作依頼があった際にも『編集権がないから』という理由で断ったという。

『映画大好きポンポさん』の舞台は欧米ではなく、架空の国ということになっているけれども、ポンポさんは映画制作会社を祖父から丸ごと引き継いでいるので、“編集権の与奪”も意のままということなのだろう。

まあまあ、編集というのはそのぐらい映画制作における重要なファクターなのだが、同時に絵面としてはものすごく地味だ。これまでスタントマンやエキストラを題材にした映画はあっても、編集マンを主軸とした映画というのはない。しかし、本作はそれをやってのけたのである。全国公開される劇場版アニメという、エンターテイメント性がもっとも重要視されるフォーマットにおいて。


この映画は“編集”という行為に対してすごく自覚的である。そもそも主人公が監督に抜擢されたきっかけが、15秒の予告編を編集し、オフショットを挿入したセンスが評価されてのことだ。本作は時系列がバラバラに配置されていたり、同じカットを何度も使用したりと、原作に対するハサミの入れ方がすさまじい。

原作版は実在するタイトルがバンバン出てくるが、本作はパロディやオマージュはあっても、タイトルがまんま出てくるということはほぼない。その中で唯一的な例外として『ニュー・シネマ・パラダイス』が出てくるのがかなり興味深い。

『ニュー・シネマ・パラダイス』はいくつかのヴァージョンが存在する映画で、1988年のオリジナル公開版は興行的にふるわなかったため、監督自身がハサミを入れて短縮版を作ったところ大ヒットした、という経緯がある。また、のちに未公開シーンを入れた完全版というのも出たが、これは短縮版と比較すると大いに印象の異なる作品で、“冗長である”と指摘する映画ファンも多い。まぁとにかく『編集』の妙味を浮き彫りにした一本としても知られる映画で、唯一これが作中に登場するというあたりに製作陣のコダワリが見える。


さて、僕は本作のネット・レヴューなどを見ていないのだが、おそらく、“オリジナル・パートに対する賛否両論”が巻き起こっているのではないかと推察する。

終盤にかけてのラストスパートで、主題歌がドカーンと大音量で鳴り響き、主人公やヒロインが飛んだり跳ねたり泣いたり走ったりする。というのは、劇場版アニメの定番パターンともいえるが、本作においてそのパターンが炸裂する場面は、なんと主人公もヒロインもいない○○○なのである。事件は現場で起こっているのではなく、○○○で起きているのだ。

この展開は、少々アクロバットすぎるのではないかと思ったし、『こんなん絶対訴訟されるだろ』と思ったりもしたのだが、これまで映画という媒体ではほとんど描かれてこなかった制作現場のアザーサイドをフォーカスした本作において、やはり“資金調達”というファクターは無視すべきではないと思ったのだろう。

また、下衆な勘繰りになるが、恋愛要素を廃した本作に対して“BL”的な要素も取り込もうという思惑もあったのかもしれない。

まぁ、映画制作の裏側を知る人からすればギリッギリありえることなのかもしれないし、よしんばありえなかったところでソレはソレである。『ありえね〜〜〜!』と叫ぶというのは一種の痛快さがあるし、そもそも劇場版アニメというのはそうした属性を強く持つ形態だ。『ありえそうなこと』を丁寧に描き続けた本作が、ああした展開によって大ジャンプをかますというのはセオリー通りともいえるだろう。


とまれ、『映画大好きポンポさん』がいかに異形の作品かということについて書き続けてきたが、そのストレンヂ具合があってこそ、ラストの主人公のセリフは強く実を結ぶのだ。このなんとも奇妙な夏に公開されるにふさわしい、奇妙で、豊かで、祈りと奇跡に満ちた映画である。




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