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SOULFUL NOVEL 『JOINT』 #1

 
これは音楽と、時間と、そして友情についての物語である。



 #1.WHY

『……つづきまして天文現象のニュースです。ここ数週間にわたってオーロラの大量発生が世界各地で報告されています。スタンフォード大学の物理学者ジェフ・ハリントン博士は、太陽の南極域の磁場反転による大規模な太陽フレアの発生が原因であると推定しています。太陽の磁場反転は極性変化のピーク時に起きる現象で、NASAの報告によると……』

 営業を終えた中華料理屋“味王”のキッチンにて、21時台のラジオ・ニュースが流れる中、成宮スナコは食器を洗っていた。ブリーチで痛んだ金髪を無造作に後ろでまとめ、大ぶりなフープピアスを揺らしながら、洗剤のついたスポンジで食器をこすっては隣のカゴにどんどん積み上げてゆく。

「♪ウ~ゥ ン~ン ウ~ ウ~ ン~ン ン~ン ンン~~ウウ~~」

 首を小刻みに振りながら鼻歌まじりに皿洗いをするスナコの隣で、洗い終わった食器を拭いていた店主の王(ワン)は尋ねた。

「それ、誰の曲?」
「あたしっス。いま思いついたメロなんスけど、我ながら名曲の予感」
「そうかァ~。スナちゃん、今日はやけにノッてるねえ」
「ノッてますよ~。マジで超ノリまくりっス」
「そうかァ~~、ノリまくりかァ。なんかイイことでもあったのかい?」

 スナコは洗い物をしていた手をぴたりと止めると、王の眼前にすばやく三本指を突きつけた。

「みっつ。最近、イイことが立て続けにみっつもあったんス」

 王は一瞬たじろぐような様子を見せたが、太い眉毛を上下させながら腕組みをして大仰にうなずいた。

「ハア~~、みっつ! そりゃまたずいぶん景気がイイねェ!」
「そーなんスよ。まずイイことがあって、それから超イイことがあって、さらに死ぬほどイイことがあったんス」

 ふたたび皿洗いを始めたスナコは、“スティッフ・リトル・フィンガーズ”のTシャツのよれた襟元で口元を拭いながら答えた。王は大きな目玉をぎょろぎょろさせながら身を乗り出した。

「ほんほんほんほん。いったいどんなイイことがあったの、聞かせてちょうだいよォ」
「お、聞いちゃいます~?」
「ぜひとも聞かせてほしいねェ~。それじゃあ最初のイイこと、はいドン!」

 唇を剃り返すようにニッと笑った王が、バラエティ番組の司会者のようなしぐさで促すと、スナコはあっけらかんとした口調でいった。

「バンド解散しました」
「えっ!?」

 コンビニ店員に“袋いらないです”と告げるときのような、あまりにあっさりとしたしゃべり方に王は思わずのけぞったが、スナコは涼しい顔だった。

「曲作ってたボーカルのヤツが、バンド辞めて仙台の実家の豆腐屋継ぐって言い出しまして。ケッコー話し合ったんスけど、それじゃあもう解散するしかねーなってなりまして」

「はァ~……それは、なんというか……残念、だねェ……」
「ま、しょーがないっス。バンドやってく上でいちばんムズいのって、売れるコトでもイイ曲作るコトでもなくて、つづけることなんスよね」
「でも……もったいないねェ。わりと人気あったんでしょ?」
「んー、まぁ、なんつーか……運命なんスよ。たぶん」

 スナコが手元に視線を落としたまま茶化すようにつぶやくと、王はむつかしそうに眉をひそめて唸った。

「運命?」
「いまあたしは皿洗いしてますけど、それはあたしが生まれる前から決まってたことなんスよ。“二〇二四年の七月四日、午後九時二十四分に、成宮スナコは王の店で皿を洗う”。それは初めっから決まってたことで、誰にも変えられない」

 そしてスナコは耳を掻くと、肩をすくめて続けた。

「……で。それをイイことととるか、悪いことととるかが、人間に残された唯一の自由意志。あたしはこれもイイことだって思いたいっスね」
「うう~~ん……でもそれ、イイことだって、思える?」
「去年のツアーでそいつの実家泊まったとき、店の豆腐食わせてもらったんスけど、マジで超美味かったんスよ。まろやかで、コクがあって、大豆の香りが余韻を残す、っつうか。バンドがなくなんのは残念っスけど、あの味が受け継がれていくのはイイことだと思いまスね」
「はあ~~~……でも、なんか、強がりみたいに聞こえるけども……」

  王は首をひねったが、スナコは鼻を擦りながら胸を張った。

「強がりでもイイじゃないですか、世の中は暗くなった順に落ちてくんスよ。死に物狂いで明るさを発揮しなきゃ。少なくとも弱がりよりはイイ」
「そうゆうモンかねェ……」
「そーゆーモンっス」
「じゃあ……超イイことっていうのは?」

 顔色を伺うようにおずおずと王が切り出すと、スナコはまたもあっけらかんとした口調で答えた。

「彼氏と別れました」
「えっ!?」

 友達に“今日めっちゃ晴れてるね”というときのような、あまりにヘーゼンとしたしゃべり方に王はまたしてものけぞったが、スナコはどこ吹く風だった。

「先週……ですかね。先週の火曜だな、うん。あの日は暑かったな」
「彼氏って、同棲してた子でしょ? 前にこの店にも来たことあるよね? オカルト系のライターやってるっていう、あの子?」
「ハイ、アイツめっちゃ霊感強いんスよ。あたしオバケとかマジで無理なのによく付き合ってたなって感じっスね、いま思うと」
「ソレがイヤで別れたの?」

 王がそう尋ねると、スナコは首をぶんぶん振った。

「や、ちゃいます。なんかあのー、あたしが帰ったら、アイツ居間でなんかすげえ地雷系の女装して、ファットボーイスリム爆音で流しながら踊ってたんですよ」
「待って待って待って、情報が多い。家に帰ったら、彼氏が女装して音楽流しながら踊ってたの?」
「ハイ。しかも銀髪のウィッグかぶって化粧もしてました」
「なんで?」
「って思うじゃないスか。だから、そーゆー趣味なのかって聞いたんスよ」
「うんうん」
「そしたら、趣味じゃないんだと。で、実はいま、好きな男の人がいるんだと言われまして」
「はァ~……」
「そんなん言われたらもうムリじゃないスか。別に何着ようが、誰を好きになろーが、そんなんは別にイイんスよ。人の“好き”にケチつけたりとか、そんなコトするために生まれてきたワケじゃねーし。でも同棲してる相手に好きな人がいるって言われたら、もうそれはムリじゃないっスか」
「まぁ…………そうだね」

 唇を尖らせながら難しそうな顔でうなずく王を尻目に、スナコは手のひらにパンチをぶつけながら力強く言い放った。

「そんでまぁ、別れて、同棲も解消し、いまは一人暮らししてるっつうワケです」
「はァ~~……でも、スナちゃんは、それもイイこと……とするの?」
「まぁ、どーせいつかは訪れる局面だったワケだし、それだったら来年とか再来年に起きるよりは今起きてよかったと思うっスけど」
「はァア~~~……そういう考え方もできなくはないけども……」
「んで、これが最後のイイことに繋がるんスけど、引っ越したんスよ。即日入居可のアパート。そこがもうマジでめっっっちゃくちゃボロいの」
「ボロいの?」
「壁とか思いっきりぶん殴ったら穴空くんじゃないかって感じ。たぶん築八千年とかいってる。マジでほぼバラック」
「ヤバいね」
「ヤバいでしょ。もうそんなんだから人もほとんど住んでない」
「……ソレはいったいどのあたりがイイことなの?」
「隣も真下も誰もいないから、音出しまくれるんスよ。入居して三日経ったんスけど、夜中ガンガン爆音で音楽聴きまくっても苦情来ないんス」
「おお……ソレは確かにイイことだね」
「でしょ、デカい音で音楽聴ける以上にイイことなんかこの世にないっスよ。なんやかや久々の一人暮らし、満喫してまス。家サイコー」
「そっか……それじゃあ、今日はもう上がってよし」
「あざっス」
「あっ、これ豚の角煮。持ってってよ」
「あ、ども。いつもあざっス」

 “味王”を出ると、熱気を含んだ夜風がソロリと頬を撫でた。スナコは大きく伸びをすると深呼吸し、七月の夜の蒸した空気をたっぷり吸い込むと、店のまえに停めてあった中古の原付にまたがった。そうしてスナコは厚ぼったい郊外の街をトコトコ走った。濃紺の空には錐で穴をあけたような輪郭の鮮明な月が輝いていた。

        
             ※     ※     ※

 午後九時五十五分。閑静な住宅街の一角にある駐輪場でスナコは原付を停めると、道路を挟んだ向かいにあるアパート“水木荘”へと向かった。ほぼバラックというのはさすがに誇張であったが、廃墟といわれたら殆どの人が信じるであろう外景――煤けたモルタル造の二階建てアパートは真っ暗で人の気配がなく、夜の闇の中でみるとより一層不気味だった。一階が正面左から101、102、103号室、二階が201、202、203号室。201号室がスナコの部屋であった。

 階段をのぼり、廊下を歩きながらスナコは203号室、つづいて202号室の中をホコリっぽい窓からちらりと眺めた。両方ともがらんとした八畳間が広がっているきりで、長らく人は住んでいないようだった。
 201号室の扉にカギを差し込み、錆び付いたドアノブを回して部屋に入る。玄関先に突っ立って、真っ暗な、誰もいない部屋をしばしボーッと眺めたのち、スナコはため息をつくと、わざとらしい声色で『ただいま』と声を張り上げた。もちろん返事などはない。

「……誰もいない、か。いたら困るけど」

 スナコは一人ごちながら自嘲気味に笑うと、スニーカーを脱いで八畳間に上がり、荷解きしていない段ボールの山をすり抜けながら、天井中央の室内灯のヒモを引いた。ぶ……んという虫の羽音にも似た音ののち、ぱっと電球が灯った……が。

「イテっ」

 室内灯の上から何かが転がり落ち、スナコの頭にぶつかった。頭をさすりながら床に落ちたソレを拾い上げてみると、小さな木箱であった。タバコより少し大きいぐらいのその箱を振ってみるとカシャカシャと音がした。

「……ンだこれ……部品かなんかか?」

 一瞬、スナコは箱を開けてみようとしたが、万が一、大量の髪の毛とか謎のお札とかが入っていたらかなりイヤだなと思って、それを見なかったことにし、流しの下の棚へと放り込んだ。そしてスナコは水道水で顔を洗うと、濡れた手をジーンズで拭い、ベッドに倒れ込んだ。そうしてぼんやり木目の天井を眺めていると、疲労感とともに涙が滲んできた。

「……っ、くっそぉ~~~……」

 ……言霊といってことばには霊的な力が宿る、少なくともスナコはそう信じていた。だもんで、昔から人前ではクラいことは言わず、なるべく調子よく振る舞うようにしてきていたが、この連日の不運ラッシュにはさすがにメゲていた。ひとりになると弱気の虫が忍び寄る。なんやかや、もう25歳である。25歳になった瞬間、いろんなことが一気にうまくいかなくなった。三年付き合った彼氏も、五年続けたバンドも終わった。いまはこのオンボロアパートでひとり、ただ涙を流して横たわるのみである。悪いことは重なるもんだというけれど、それにしてもだ。

「ッ何でだよおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
 
 スナコはガバッと飛び起きると、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、一気にそれを飲み干した。

「やってられっか!!!!!!!!!」

 そして空き缶を握りつぶすと床に叩きつけ、宙に向けて中指を立てた。何に対してのFUCKサインであろうか。おそらく運命に、である。

「ナメてんじゃねえぞ!! ナメんな!! ナメんなよ!! よし来い! よし来い!! よし来い!!! 一人ずつかかってこい!!! 一人ずつかかってこおーーい!!!」

 スナコは明後日の方向に意味不明な妄言を吠えると、さらに冷蔵庫からチョコブラウニーを取り出し、口いっぱいにそれを頬張った。しっとりとした食感と甘く濃厚な味わいが広がると同時に、血糖値がぐんぐん上昇してゆくのが解る。文庫本サイズのブラウニーを半分ほど一気に食べてしまうと、スナコはカセットテープ・ラックのまえにしゃがみこんだ。百本ほどのカセットが収納されている棚から一本を抜き取ると、スナコはそのテープをラックの上に鎮座ましますラジカセへと突っ込んだ。80年代に“ゲットー・ブラスター”と呼ばれ、黎明期のヘッズたちが肩にかついで爆音でヒップホップを流していた、ヴィンテージの大型ラジカセである。
 再生ボタンを押し、『VOLUME』と『BASS』を最大にすると、一瞬の間ののち、信じられないほどの大音量でディレイのかかったギターと電子音が流れ始めた。ドイツのジャズ・バンド、トゥルービー・トリオの『ア・ゴー・ゴー』を、ブーズー・バジョーがリミックスした音源である。

「Oi! Oi! Oi! Oi!」

 チキチキと刻まれるリズムトラックに合わせて頭を振りながら、スナコは壁際に設置された電子ドラムの前へと座ると、電源を入れた。そしてスティックを握り、スナコはカウントを入れた。

「ワン、ツ、スリ、フォ!!」

 左右のクラッシュシンバルを叩き、スナコがハイハットを刻み始めると同時に、ベースラインが入ってきた。そしてビートの間に刺繍を入れるように、スナコは楽曲に合わせてドラムを叩いた。

「OH YEAH~!!!」

 リズム楽器というよりウワモノを鳴らすような気持ちで。そしてブレイクビーツというよりギターリフを鳴らすような感覚で、スナコは打点を紡いだ。周期時間を微分化し、複数周期でリズムを掴みながら、それぞれの周期感覚を曲芸のように飛び移っては、有効な音列をはじき出す。

 ン、タ、ドドスタ、チキチチキチ、ッパ、ズドン、グタパトン、グガン。

 先ほどまで涙で滲んでいたスナコの瞳は、ビー玉のように澄んでいた。

 ッタト、ズズズタッ、ダカトダカトダカト、ドドスタス、チッ、ツチツチッ。

 スナコはドラムを叩くのが好きだった。高校の入学祝いにドラムセットを買ってもらってから、彼女の人生は大きく変わった。

 ズッダン、ダンダン、ドゥルタタタタ、ドパン。

 小学校の頃から音楽を聴くのは好きだったが、楽器を手に入れたことによってスナコはより音楽へのめり込んでいった。

 ドダン、ダムダム、ズズタトン。

 そして彼女が音楽に己の生涯を賭けようと決意するまでそれほど時間はかからなかった。

 ドゥルタタタタ、ドパン、ドスタス、スタス、ンチッ、パラララッ、バガスクスタスクス。

 演奏行為とはダンスとセックスと数学と建築の一体化である。ダンス/セックスが持つ、なんかわかんねーけど気持ちいいという根拠なき快楽。数学/建築が持つ、理論によって構築された根拠のある快楽。それらを全感覚をもってドライヴさせるのが演奏だ。

 ダン、ダン、ドパーン、ズチズチッ、ズクスクダグッ、ドッ、パッ、チッ、ドゥクドゥク、ダーン。

 楽器奏者は演奏をとおして、いまこの瞬間にのみ集中する。それは祈りにも似ている。何かを強烈に祈りながら、それが何なのか解らぬまま、現在に在り続けるように。

 ドッカッ、ドドカッ、ズクズク、バシャバシャバシャッ、ダラダラドカドン、ドンドロン。

 セネガルのパーカッション奏者、ドゥドゥ・ニジャエローズはこう言った、“死にたくなったり、誰かを殺したくなったら、一日中タイコを叩け”。

 ジャーンジャーン、ドットラチタララ、ズズドッ、パッ、シャン、ズバズドン。
 
リズム構造によって原始的本能を蘇生させ、生命を躍動させる“場”の力学、それがすなわちGrooveなのである!!!!!!

 ……かくしてスナコは流れる音楽に合わせて、ドラムを叩き続けた。不安も後悔も怒りもそのままに躍り続けた。そしてときどきタバコを吸ったり、ビールを飲んだり、踊ったりなんかしてるうちに畳の上でブッ潰れた。時刻はすでに十二時をまわっていた。

 午前一時五分。スナコは目を覚まし、そして自分がいままで眠っていたということに気づいた。むっくりと上体を起こすと、頭の下にしていた右腕がじんじん痺れていた。音楽はとっくのとうに終わり、部屋は真っ暗で静まり返っていた。

「ん、あー…… あ……」

 スナコは大きな欠伸をしてから立ち上がると、室内灯のヒモを引いた。しかし、何度引いてみても灯りはつかなかった。どうやら寝潰れている間に電球が切れたみたいだった。スナコは舌打ちを連発しながら台所へ行き、換気扇を回すとタバコをくわえて火をつけた。ぐしゃぐしゃの金髪を掻きむしりながら吸い込んだタバコは、全然おいしくなかった。紫煙を宙に吐き出しながら、スナコは、冷たいレモネードが飲みたいなと思っていた。

「ふー……」

 そうして、ボーッとしながらタバコをフィルターぎりぎりまで吸い、シンクに並べられたビールの空き缶に吸い殻をねじ込んだ、まさにその瞬間であった。

 グガン!!!!!!!!!!!!!!


 突如響いてきたその歪んだ音に、スナコは驚きのあまり飛び上がった。

「っひい!!!!」

 そしてスナコは慌てて部屋を見回した。ラジカセから音楽が流れ出したのかと思ったが、テープはとっくの昔に止まっているし、ラジオを拾っているワケでもない。なんだ、なんだ、一体いまの音はなんだ……波打つ胸をぎゅっと抑えながら、必死でキョロキョロ辺りを眺めていると、ふたたび音が響いた。

 ――ピアノの音だった。どこか物悲しげな、音色の精緻な階音だった。スナコは自分の耳が信じられなかった。足がじぶんの意志とは無関係にガクガク震えた。なぜならそのピアノの音は、誰もいるはずのない、隣室の202号室から響いていたからである。

「あ、あ、あ……」
 
 腰を抜かしたスナコはその場にへたり込んだが、ピアノの演奏はつづいた。額に滲んだ汗がこめかみを伝い、顎先から滑り落ちた。スナコは奥歯をガチガチ震わせながら、これが夢でも幻聴でもなく、まぎれもない現実のできごとであることを悟った。パニック状態のスナコの脳内で、さまざまな思考や感情がスパークし、火花を散らした。
 なんで、なんで、なんで、なんで。隣は誰も住んでないのに。さっき覗いたときもピアノなんて無かったのに。
 そうして尻餅をついたまま、ピアノの音が響く壁面から目を離せずにいると、さらなる恐怖がスナコを襲った。

『……あっ……あー……っ……ちがった……ちがった……ちがった……』

 ピアノの演奏とともにうっすらと聴こえてきたのは、人の声だった。何とも悲しげな、恨めしそうな、若い女の声。

「~~~~~~ッッッ!!!!!」

 スナコは恐怖のあまり悲鳴をあげることさえできず、四つん這いのままで玄関へと駆け出した。やばい、やばい、やばい。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。無我夢中でスナコはもんどり打つようにして玄関扉を開けて外へ転がると、何とかサンダルだけは突っかけてそのまま走り出した。そうしてスナコは声にならない声をあげながら、丑三つ時の静まり返った住宅街を、脇目もふらずにひたすら走り続けた。

 



♪Sound Track : A Go Go (Boozoo Bajou Mix) / Trüby Trio 


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