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友の死について書こうと思う

誰しも生きていれば人生の中で後悔している事の1つや2つはあろうかと思うが、私には悔やんでも悔やみきれない一つの出来事がある。

もし神というものが存在して、人生で一度だけ私を好きな時間に戻してやると言われたら、迷わずあの日に戻してほしいと願う。

自宅の留守番電話にTの声が入っていたあの年のあの日に…。

親友T

私には学生時代に友人と呼べる人間が何人かいたが、その中でも一番の友は、高校時代に知り合ったTだ。

高校の入学式の日、掲示板に貼られたクラス表に自分の名前を探した時、一瞬自分の名前が二つあると錯覚したのを覚えている。

よく見ると、苗字が一緒なだけで下の名前が違っていた。
自分の教室に入ると、名前順に席が決められていて、Tと私は前後の席になった。

苗字が同じこともあり初日から仲良くなり、毎日一緒に帰るようになった。
ギターが上手いやつで、私が二十歳の頃バンドを組んだのも元はと言えばTの影響だ。

性格は明るいやつで、当時の私とは対照的だった。
でも、どこか生真面目で気難しい一面も持ち合わせていた。
Tとはなぜか気が合い、友として3年間を一緒に過ごした。

何度も一緒にTとアルバイトもした。
初めての給料を手にした時には感激した。

あいつが弁当を忘れた時には私の弁当を二人で分け合ったりもした。

学校が終わるとお互いの家がそう遠くなかったので、Tの家まで行き一緒にギターを弾いて歌を歌ったのは今となっては懐かしい思い出だ。

社会人になってからも、当時実家に住んでいた私のところに、たまに顔を出してくれた。

私が不在の時には私の親父と酒を酌み交わすようなやつだった。
Tの物怖じしない性格は親父とも気が合ったようで、「あいつ酒強いなぁ」、って親父が笑っていた。

そして、私が何年も務めた最初の会社を退職し、ワンルームマンションを借りて一人暮らしを始めた頃、たまたま実家に帰った時に、偶然にもTが訪れ色々と話をした。

ハッキリとは言わないが、何か悩んでいるような感じで、私に話を聞いてほしかったのかなぁ、と感じた。
肩の荷を下ろせと言わんばかりに「しんどい時は、逃げてもいいんじゃない。」と私は何気なく言った。

新しいマンションの電話番号をTに教え、彼の乗った自転車の後ろを押し、「またな!」と別れた。
そして、それが生きているTを見た最後となった。

それから何カ月かして、外出先からマンションに帰宅すると、留守番電話が1件入っていた。

Tからの留守電メッセージ

要件を確認すると、Tの声が入っていた。

何か用事があった感じでもなく、私の留守番電話のメッセージが私の声でないことに文句を言っていた。
後で考えると、たとえ留守電応答でも私の声を聴きたかったのかもしれない。

当時の私は新卒で入社した会社を退職したばかりで、いろいろと悩み苦しんでいる状態だったこともあり、自分自身の結果を出せたらTに電話しようと考えた。

ところが、それからしばらくして、また自宅に留守番電話が入っており、またTかなと思い確認すると、彼の奥さんからのメッセージだった。

奥さんとは面識もあり、久しぶりだなぁと思ったが、メッセージを聞き終わった私は愕然とした。

Tが死んだと言うのだ。

「死んだ!?この前留守番電話が入っていたのに…。」
あわてて折り返しの電話を入れた。

彼の奥さんと話している間、信じられない気持ちと、それが事実であるということのショックでいっぱいになった。
電話を切った後も茫然としていた。

葬儀に参列し、棺に入ったTの顔を見て、初めて彼の死を現実として受け入れることになった。
ところが問題は、この後のTのお兄さんの話だ。

Tの死の理由

実はTは自殺したと言う。
「自殺…!?」「なんで…?」

Tは私より早く結婚しており(当時の私はまだ独身)、奥さんは優しくて感じの良い女性だった。
その前に付き合っていた女性とは対照的で、良い人に出会えて良かったなぁ、と喜んだものだ。

当時、Tは体を悪くしてしまい仕事が出来ない状態だったようで、随分悩んでいたらしい。
彼の家庭は子だくさんで、奥さんの話によると家族を支えていけない自分に憤りを感じていたとのこと。
そして、最終的に彼が選んだのは死という選択肢だった。

もし自分が同じ立場だったら、どういう選択をしただろうか?
同じように考えただろうか…。

私には一つ思うことがある。
人間には生きる権利があるが、死ぬ権利もあるんじゃないのか。
ただし、これはTに対する私の個人的な考え方だ。

家族や親の気持ちを考えたら、それは間違った考え方だろう。
実際に家族や親はどれだけ悲しんだことだろうか。

親不孝者だ。

しかし、それでもあえて言うが、死ぬ権利もある。
これは、決して自殺を肯定しているわけではない。

あくまでも、わたしのTに対する気持ちだ。

彼が死んだことで、悲しんだり、苦しんだり、悩んだりし続ければ、彼が浮かばれないんじゃないかという気持ちになる。

家族を残して勝手に死なれたら家族の方が浮かばれないと思う人が多いと思う。
それが、残された家族や親の心情だろう。

しかし、それでもあいつを許してあげたい。

私は、あの時にTを救えなかった。
「しんどい時は、逃げてもいいんじゃない。」と私が軽く言ってしまったことを後悔している。

「そういう意味じゃない、T!そうじゃない!」と当時は悔しく思った。
ほんとは「もう少し自分に甘くなれ、いい加減になれ!」と言いたかっただけなんだ。
言葉足らずで選択ミス、ほんとに未熟だった。

でも、あいつほんとにつらかったんだろうなぁ…と思う。
私が会社を辞めるのがもう1年遅かったら、留守電を聞いてあいつに電話を入れていたかもしれない。
そしたら、救えたかもしれない。

かもしれないばかりで、今さら悔やんでも仕方がないのだが…。

生きるということは毎日の繰り返し

人間には、1つだけ平等なことがある。
それは、誰にも死というものが訪れるということだ。

遅かれ早かれいずれは嫌でも皆死ぬことになる。

病の苦しみ
お金がない苦しみ
子供の悩み
離婚 
親の介護 など

生きていればつらいこともある。

人間は、いったい何のために生まれて何のために生きなきゃならないのか?
そんなことを考えても答えはおそらく見つからないだろう。

明日のことを心配したり、昨日の事を悔やむよりも、今日、この日、この一瞬をどう生きるかが問題だ。

そして、無い物ばかり嘆かず、あるものに感謝する。

身体を休めてみても、なかなか気は休まらないが、人間は暇だとあまり前向きな事は考えない傾向にある。
テレビのニュースを観ていても、犯罪を起こしている人間は無職の場合が多いように感じる。

要するに彼らは暇だったのだ。
そして自分自身に大きな不満を抱えている。
事件を起こしたのは、その反動のように思う。

頭と体は連動している。
心が病むと体も動かなくなる。
生きる気力が無くなってくるのだ。

大切なのは、今この一瞬だ。
どんなにつらくても今日一日だけなら乗り越えられる。

今日一日を一生と考えてみる。
人生はその繰り返しだ。

「明日」になれば、「明日」は「明日」ではなく「今日」になる。

Tおまえと出逢えてほんとに良かった。
高校3年間はおまえのおかげでほんと楽しかった。
おまえが死んでから年月は経ったけど、おれはなんとか今日もしぶとく生きてる。


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