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このお茶碗が人生最後のお茶碗になってほしい

確か、大学入学直前の春休みだった。
じいちゃんとばあちゃんと旅行に行こうということになった。

普段だったら、両親と姉も一緒に行くところだが、なんでかそのときは3人だけで行ったのだ。平日だったのかもしれない。

それが、じいちゃんと行った最後の旅行になった。

観光はほどほどに、温泉旅館でのんびり過ごした。その旅館では、小高い丘の上に工房があって、いくつかのワークショップを開催していた。私は茶碗の絵付け体験をすることにした。じいちゃんは部屋で休んでいて、ばあちゃんと2人で行った。

茶碗はすでに焼きあがっていて、自由に色を塗ったり、絵を描いたりできる。私は猫が好きだから、猫と花の絵を描いた。自慢げにばあちゃんに見せた覚えがある。

底に、誰のものか判るように名前を書くのだけれど、「ゆうみ」まで入らなくて「ゆう」とだけ書いた。

完成して持ち帰った茶碗をじいちゃんに見せたら、うまくできたね、と褒めてくれた。

それ以来、10年以上そのお茶碗を使っている。私は自分の持ち物に執着しがちなのだけれど、特にそのお茶碗は大事にしている。
(ちなみに、味噌汁を入れるようなお椀は、ほぼ生まれたときから使っている。)

形ある物はいつか壊れる、と分かってはいても、ずっとこのお茶碗が割れなければいいのに、と思ってしまう。なにしろ、あの旅行で観光した場所は全く覚えていないけれど、このお茶碗を見るとじいちゃんと一緒に行って楽しかったことだけは思い出すのだ。

そして時々、あぁ、じいちゃんが字を教えてくれたんだったなぁとか、一緒に夏休みの宿題やったなぁとか、いびきうるさかったなぁとか、そんなことも一緒に浮かんでくるのだ。

今日も私は、このお茶碗でご飯を食べて生きている。

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